文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治
見渡す限り四方は、山に取り囲まれている。神岡の町を南北に流れる高原川に、まるで寄り添うかのように開けた盆地。山と大自然に向き合い、畏敬の念を掃いつつ、人々は古より連綿と生きて来られたのであろう。そんな感傷に浸りながら、若き山師を訪ねるべく歩を進めた。しばらく行くと、よく言えば山小屋風、悪く言えば掘っ立て小屋のような建物の周りで、山師のような男たちが蠢いている。「ちょうど今、伐採現場から皆戻って来たところです」。山師の一人が声を掛けて来た。
柿下剛さん、44歳。林業を主軸とする、ベンチャー企業「(株)速(はやみ)工業」を率いる、立派な代表取締役だ。「『林業をもっと面白く』をコンセプトに、年々従事者が減少する林業だからこそ、もっともっと面白くしたいと思ってるんです」。いかつそうな山師を想像していたが、少年のような目をキラキラさせながら、柿下さんは柔和な笑顔を見せた。
業務は主に、伐採や特殊伐採に倒木処理。薪・木材の売買及び伐採搬出。そして除雪に雪下ろしと蜂駆除や草刈り。さらには土木・造園などの建設業までと、植林・育成以外の林業全般に付帯する作業を、一手に引き受けると言う。「中でも主力は、電力会社の送電線に支障を来たしそうな木を伐採し、送電線を保全する業務や、民家裏などで倒木が懸念されるような木の、特殊伐採が主な業務です。同時に、高齢化の進むこの地域にあって、自分じゃ手が回らないような、蜂駆除や除雪に雪下ろしなど。林業だけに囚われない新しい挑戦を、『林業をもっと面白く』したいと、皆で積極的に取り組んでるんです」。色気のない、男やもめの山師ばかりが掬う、むさ苦しい山小屋かと思いきやそうではない。柿下さんの信念でもある「林業をもっと面白く」を、社員の誰もが体現しながら自ら愉しんでいるように見受けられた。
柿下さんは1980年、神岡町船津の洋菓子店で、2人姉弟の末子として誕生。中学になると夢中でバスケットボールを追い駆けた。「バスケの特待生として、岐阜農林高等学校へ推薦で行けるはずやったのに…。なんせ頭も素行も悪かったから、あまりの酷さにこっちの中学校側が推薦を辞退する羽目に。そうなると益々、どうしても岐阜農林へ入りたくなって。でも後は、勉強して実力で入るしかない。当時の中学の先生も、必死に教えてくれて。とにかく猛勉強の毎日。でもお陰で、上位の成績で林業科に見事入学出来たんです」。親元を離れ、寮生活が始まった。「もう来る日も来る日もバスケ三昧。でもレギュラーのスタメン張って、国体にも出場しました」。東京の大学へも推薦状が出た。「でも高校の3年間で燃え尽きちゃって。それよりも都会へ出て遊びたいって!建設関係の専門学校へ入る事に」。都会での遊びが9割、勉学1割の自堕落な暮らしが始まった。「高校3年間の運動部の苦痛から解放され、きっと箍(たが)が緩んだんでしょうねぇ。高校生の頃、69kgだった体重が見る見るうちに90kgに!」。
20歳で神岡へと舞い戻ると、奥飛騨にある建設会社に入社。砂防ダムの建設や道路補修、橋梁(きょうりょう)工事などの監理業務に就いた。「でも残業が多くって、仕事に追われ自由が無くって」。しかしそこは、バスケで培った忍耐力で、日々を乗り越えた。そして24歳になると神岡鉱業に入社し、施設部へと配属。それから4年ほどたったGW。「もともと自然や山登りが好きで。20代もそろそろ終盤に差し掛かったころ、ロングトレイルを知って。バックパックにテントとか備品を入れて、6日間かけて250km、群馬まで歩いて行ったんですよ。群馬の彼女とGWに逢うために!6日掛けてやっと彼女に逢えたと思ったら、『風呂も入らず、何でこんなとこまで歩いて来たのよ!バッカじゃないの?車でさっさと来るべきでしょ』って見事に振られちゃって」。せっかくのGWの大半が、神岡から群馬までのロングトレイルに費やされ、逢瀬を愉しむこともままならないとなれば、会える日を心待ちにしていた彼女の気持ちも痛いほどわかる。「でも俺的には、物凄い達成感があったんですけどねぇ」。って、まだ言うか!
それから3年経った2011年。柿下さんはそれでも懲りず、次のGWには10日間ひたすら歩き続けると言う、八ヶ岳スーパートレイルに挑戦するつもりでいた。「ところが春先に東日本大震災が東北各地を襲ったじゃないですか!その悲惨な状況をTVで見て、何とかしなきゃって思って!それでGWの10連休、物資を軽トラに山積みして、何はともあれ宮城の石巻までボランティアスタッフに加わろうって、車を走らせたんです。今になって思うと、それが俺の中で一つの転機となったんでしょうね」。
翌年、縁あって神岡緑化工業に転職。現在の速工業の素地とも言える、電力会社の送電線の維持管理にあたり、山の中での伐採作業や草刈りに従事した。そして2年の歳月が流れた頃だった。「会社で一緒だった、若い同僚社員二人と俺の3人で、独立しようかって話になって」。
2014年、34歳で速工業を創業。「今いるこの場所の上の車庫だけ借りて、そこを資材置き場にして」。会社の創業と同時に、家庭も築いた。小中学校の同級生だった妻を迎え、一女を授かった。「そりゃあ、会社の創業と結婚が一緒の年でいいのか?とは思いましたけどねぇ」。
わずか3人でスタートした会社は、草刈りや伐採をメインとする、送電線の維持管理が主力で、徐々に営業エリアも拡大していった。そしてしばらく後に、神岡緑化工業が閉鎖となり、そこから3人の社員が戦力として合流し、社員数も6人へ。
「とにかく伐採現場までは、道具類を背負子で担ぎ、急斜面を歩いて行くしか方法がないんです。だから技術力はともかく、高い場所に登る度胸も必要なんです。まぁ俺の場合、体育会系のバスケで培った忍耐力がそこそこありましたから、それが今の林業のベースになってるんでしょうねぇ」。登山道でもトレッキングコースでもない、道なき道を進めば、当然、人間界と獣界とを越境することとなる。「そりゃあ、熊やスズメバチ、それにヘビやマムシにイノシシなんて、もうしょっちゅう出くわしますって。だから熊鈴着けて熊撃退スプレーやスズメバチに刺された時のために、アナフィラキシー対応のエピペンとか常時持ち歩くんです」。危険と隣り合わせの、自然界相手の過酷な作業である。
現在の山小屋風の事務所に移ったのは、2021年頃。「神岡鉱業の敷地を借りて、自分たちで荒れ地を整備し、この仮設事務所を建てたんです」。そして翌年には、北陸電力の送電線の保全作業を請け負っていた建設会社を、吸収合併し受け継いだ。「先方の会社の社員が高齢化していたものですから」。現在では創業時の5倍となる、社員数16名の大所帯へと進化を遂げた。
「今後は飛騨市の広葉樹を、建材としてブランド化させたいと思ってるんです。山林の地権者も高齢化が進み、山を保全するのが難しくなるばかりですし。故郷の山の魅力を再発見し、ここ神岡の山を守っていきたいんです。事業を通してお金を稼いで、それを今度は地域の若者に再投資して、ひいては飛騨市に貢献するのが夢なんです」。社員の給与を保証し、土日に地域のイベントなどへ、ボランティアとして参加させるなど、この地域の活性化に対し積極的に一役も二役も買っている。
仮に飛騨市全域をバスケのコートに見立てるならば、柿下さんは「Coast to coast(コートの端から端まで1人でボールを運び、一気に得点するプレー)」の離れ業に、全力で挑もうとしているのかも知れない。