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日根野 壽子さん(古川町)

印刷用ページを表示する掲載日:2024年10月1日更新

飛騨びとの言の葉綴り画像

文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治​

日根野 壽子(ひねのとしこ)さん

古川町「美術品が纏った、時代や歴史と文化が交差する知的Museum~日根野美術館」

古川の町を何の当てもなくただ歩く。とても好きな、ぼくの密かな時間だ。今日も壱之町通りを流していると、町屋風の小洒落たCafeに目と足が釘付け。入り口に置かれたイーゼルのボードを眺めると、「日根野美術館&Cafe」とあるではないか!それにしても壱之町通りの景色に溶け込み、こじんまりしていながらも、何とも気品と風情溢れる佇まいだ。しかも入館料は、なんと飲み物付きで締めて750円とあるではないか!ならばこのまま立ち去るは、如何にも無粋と言えよう。

ぼくは静かに丸窓の引き戸を開けた。天然石の三和土(たたき)には、静謐として清浄な気が漂う。「さぁどうぞ、お上がりください」。とても柔らかな声音で、上品なご婦人がぼくを招き入れてくれる。上がり框を踏み越えた瞬間、ぼくは喧騒とした現(うつつ)の世を難なく飛び越え、古(いにしえ)の美が織りなす迷宮へと、迷い込んでしまったようだ。

中庭の見える和室の床の間には、紛れも無い河合玉堂の真蹟。一幅の軸が部屋の景色に溶け込むように、さりげなく掛けられている。「真蹟で御座い」と言った、掲示物も無ければ、これ見よがしな照明など当てられてはいない。ただただ、床の間をさりげなく彩る、墨痕淋漓な季節の使者のようだ。「私どもがプライベートで収集した、そんな作品ばかりを展示させていただいている、小さな小さな私設美術館です。よろしければどうぞごゆるりとご覧ください」。再び囁くようなご婦人の声がした。「日根野美術館&Cafe」の館長兼オーナーであり、パティシエールでもある、日根野壽子さんだ。「まずはコーヒーとチーズケーキをどうぞ。それとこのマーマレードも、ぜひご賞味あれ!」。壽子さんがチャーミングな笑顔を添えてくれた。コーヒーのカップ&ソーサーも、チーズケーキのお皿も、いずれ劣らぬ年代物の名だたる焼き物だ。そしてガラスの小さな器に盛りつけられた、飴色を纏ったマーマレード。まずは、馨しき金色の輝きを放つマーマレードを口へと運んでみた。するとどうであろう!優しい甘さの向こうで、柑橘系の酸味と苦味が互いを主張し合いながらも、実に見事すぎるハーモニーを口中で奏でてくれるではないか!まさに美味の協演だ!「私ねぇ、昔からお料理を作るのが好きで、そんなことからこのマーマレードを作っちゃったわけ。そしたらお友達から、マーマレード発祥のイギリスで『ダルメイン世界マーマレードアワード』ってのがあるみたいよって教えられて。私のマーマレードは、本場のイギリスでどんな評価をされるのかしら?まあどうせ無理だろうけどって思いながらも、怖いもの見たさで応募しちゃったわけよ。そしたらなんとなんと、『アーティザンって言う匠部門』の金賞をいただいちゃったのよ。それもよ、2018年で70歳の古希を迎えてからなのよ」。壽子さんがおしとやかに笑った。「だからお菓子作りも、マーマレード作りも、お陰で止められなくなっちゃったのよ」。

壽子さんは1947年、東京都あきる野市で5人兄妹の末子として誕生。「だからねぇ、子どもの頃から依頼心が強くって、出来も悪かったのよねぇ」。謙遜する笑顔もとても柔らかだ。都内の短大を出ると、その年完成したばかりの霞が関ビルにあった、大手総合化学メーカーに勤務。「バリバリのOLなんてぇもんじゃないわよ!ただのお茶汲み係りよ」。当時日本一の高さを誇った霞が関ビルは、連日見物客でごった返したと言う。

「私ねぇ、昔っから日本画とか工芸品とかが好きで、休みになると銀座の画廊巡りばかりしてたの」。そこで人を介して紹介されたのが、古川町出身で国立病院に勤務する医師、日根野吉壽さんだった。吉壽さんも壽子さん同様、日本画や工芸品など、美術品に造詣が深く、画廊巡りの良きお相手となり結婚。新たな生活が始まった。「主人は日本の美術や文化に大変興味があって、知識欲も人並外れて旺盛で、主人のそんな所にいつの間にか惹かれて行ったのかしら?」。壽子さんが乙女のような眼差しで、ほんのりと頬を赤らめた。それから10年。ご主人の転勤で北海道は洞爺湖町へ。洞爺湖での暮らしは、大自然を満喫しながら、周りの人々との良好な関係にも恵まれ、夫婦にとっての理想郷となった。

1991年、老朽化した日根野さんの実家である、現在の日根野美術館を建て替えることに。「それからは北海道から古川へ、時折り戻っては、雅楽の社中の皆さんやら、北海道の医局の皆さんをお招きして、私がお料理を拵えて。コレクションで主人と集めた磁器や陶器、それに蒔絵を施した器に盛り付けておもてなししたり」。江戸末期の日根野家のご先祖様が、京都の東儀家に雅楽を学び、許可状をいただいて古川の地で社中を構えたそうだ。

壽子さんの料理は、料理学校に学んだものではない。ご主人と共に一流店を食べ歩き、舌と目で覚えた料理に、さらに壽子さんらしい一工夫の趣向を凝らしたもの。「そんなおもてなしの席を設けては、皆様方と日本の古美術や文化について語らう事が、主人も私も何よりの愉しみだったんです」。

理想郷での暮らしも14年を迎えた頃。未来永劫続くと信じていた、心穏やかで安寧な日々の暮らしに暗雲が忍び寄った。「世に医者の不養生なんて言うでしょ。主人は内科医でありながら、自分の癌に気が付かなくってねぇ」。壽子さんの笑顔が消えた。「主人が亡くなる一ヶ月くらい前だったかしら。どうやら主人は、古川の家の事が心配だったらしくって、『この先、古川の家はどうする?』って聞いたんですよ!それでねぇ、私が『あんなにお金をかけて、あんな家建てるもんだから』って、つい言い返しちゃいましてねぇ。そしたらもうそれっきり、この家の事は一っ言も口にしなくなってしまって…。今にして思うと、なんであんな事言っちゃったのかしらって…」。壽子さんは中庭に目を向けた。

それから一月ほど経った2005年、吉壽さんは洞爺湖町で鬼籍入り。享年80。「主人の死から、その後の私の2ndステージの何もかもが始まったの」。北の大地を終の棲家とすべきか、はたまた古川に移り住むべきか。でなければ肉親がいる東京へ戻るか?壽子さんの心は揺れ続けた。「だってここ古川には友人も親類もいないし、何より飛騨弁もしゃべれないし」。ご主人との死別で抜け殻の様になり、毎日悲嘆にくれるばかりだった。「主人の死を受け入れて、今この時をどうやって乗り越え、この先どう生きればいいんだろうって…。そしてやがて、このままじゃいけない!取りあえず自分自身で何か資格を取らなくっちゃって…。そう思ってまず何はともあれ、最初に車の免許を取ろうって考えたの。だって車が無きゃ、一人で何処にも行けないでしょ。だから60歳を目前にして、自動車学校へ通ったの。箱入り娘ならぬ、箱入りおばちゃんだったのよねぇ。いつも主人に頼りっきりだったから…」。すると若者に交ざって恐る恐る受験した学科試験では、若者たちが及第点に及ばず落ちるのを尻目に一発合格!「それで少し自信がついて、少しは前向きになるきっかけになったのかも」。

その後、縁あってスクールカウンセラーとして、7校のカウンセリングを任され歳月も流れ、忙しい日々の暮らしと引き換えに、寂しさは紛れた。とは言え、壽子さんの脳裏から古川の家をどうすべきか消え去るものではなかった。「私の中にも、主人が遺してくれた美術品や日本画があるから、敷居の低い小さな私設の美術館でも開けないかなぁってそんな想いもあったの。日本橋の由緒ある美術商と、昔から懇意にしていたから相談してみたのよ。そうしたら『そりゃあ是非にでも美術館をやった方が良いって』、何だか背中を押されちゃってねぇ。そうこうして居る内に、私の頭の中にも青図面が浮かび上がって来て、鳥取の足立美術館を訪ねて、館長さんにもご相談したりしてねぇ。そしたらご親切にもレクチャーして下さり、『何なりとご相談ください』ってアドバイスまでいただいちゃって」。雅楽の社中の皆さんからもアイデアが湧き出た。そして2006年1月、晴れて「日根野美術館」が開業。「最初はCafeを併設してなかったのよ。でもお茶のお道具もそれなりに一杯あったから、お抹茶でおもてなししようって始めたの。でもねぇ私、算盤勘定に疎いものだから、入館料とお抹茶、それに季節のお菓子をお付けして750円にしちゃったの。でもいいのよ。ここに来られた方が、肩の力を抜いて美術品や日本画を心行くまで鑑賞され、中庭をご覧になりながら、お抹茶とお菓子で一服していただければ、私にとってそれが何よりなんですもの」。壽子さんにまた柔和な笑顔が戻り、凛とした溌溂さも舞い戻った。

ご主人の目に、今の壽子さんはどう映っているでしょうかと、問うてみた。すると「きっと私が思うには、『あんた、なんだか面白い事やってるねぇ』なんて言ってるんじゃないかしら?そうそう今になって思い出したけど、主人が身罷る寸前に『塩煎餅が食べたい…』って言ったんですよ?えっ、なに?塩煎餅ですって?って、私にしたら、何で今際の際になって塩煎餅なのって思えちゃったのよ。でもそれは主人の故郷、ここ飛騨古川であり、両親への想いだったんでしょうねぇ。『古川なんて、寒くってまっぴらだよ』なんて嘯いてたのに、主人の魂はず~っとここ古川の地を離れてなかったんでしょうねぇ」。壽子さんは次の間との境の障子を開けた。そこにはご夫婦で全国を巡り集められたと言う、見事なまでの蒔絵が施された眩いばかりの珠玉の銘品が、紺の毛氈の上に鎮座している。壽子さんはまるで亡きご主人を偲ぶかのように、ゆっくりと話し始めた。「私が『あんなにお金をかけて、あんな家建てるもんだから』って、つい言い返しちゃったことが、未だに心残りなの。何でそんな言い方しちゃったのかしら。そう放言した状況を想い出すと、それは全く言葉の暴力そのもの。日を追う毎に、私の心は自責の念に駆られ、罪悪感で胸が張り裂けそうになって。でもそれが終わりの始まりだったのかも。ちょっぴり罪滅ぼし行脚感も否めないけど、人生と言う名の舞台のエピローグは、やっぱり古川だわ!古川の家で第二の人生を自分らしく精一杯生きなさいって、自分の手で自分の心に楔を打ち込んだことだったんじゃないかって、そう思えるようになったの。自分の役割もやっと見えて来たし、『晩節こそ美しく彩りたい!』そんな願望もあって、今をこの瞬間を生きようって決めたの。だからこの美術館は、ただ美術品を鑑賞していただくだけじゃなくって、美術品が纏った時代や歴史と文化について語り合える、そんな知性の交差点になれたらいいの。それが私の生きる喜びかしら」。小さな小さな美術館には、気高いご夫婦の知的な精神性が、そこかしこに螺鈿細工さながら鏤(ちりば)められていた。

    
10月号日根野壽子さん_イラスト
10月号日根野壽子さん_写真