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飛騨びと言の葉綴り~宮川町・平澤百合さん

印刷用ページを表示する掲載日:2026年10月15日更新

飛騨びとの言の葉綴り画像

文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治​

平澤 百合(ひらさわゆり)さん

宮川町『宮川町に全力愛!自給自足の出来る魔女になりたい~ 平澤百合』

宮川町のダム湖の畔に佇み、柔らかな秋の日差しを浴び、おむすびを頬張っていると、ジョギングウェア姿の女性が、牧戸の方から大きく手を振り駆けて来た。
どうやら、今回取材をさせていただく方のようである。
「最高に気持ちいいんやよ!宮川のダム湖沿いを、森林浴気分たっぷりにマイペースでジョギングしたら、身も心も直ぐにリフレッシュ出来るんやさ!私はここ宮川町が大好き!だから『宮川の魔女』って呼ばれる日が来るまで、この町で生きてくんやよ」。
開口一番、故郷宮川町愛を全力で口にしたのは、生粋の宮川生まれ宮川育ち、宮川マラソン実行委員会委員長であり、地域複合サロン「よらまいか」の代表でもある平澤百合さん(58)だ。百合さんはこの他にも、10もの肩書を持ち、地域の活動の担い手としての責任を負っている。

百合さんは昭和42(1967)年12月に宮川町で三人姉弟の次女として誕生。宮川町の大自然に抱かれ、大自然を友としながら育って行った。宮川村立坂下小学校から村立宮川中学校を経て、吉城高等学校の理数科へ。高校を出ると吉城農協に勤務し、データ入力の事務職を務めた。「どうしても大学へ行って、教員になりたかったんやさ」。21歳の年に農協を辞し、教育委員会のパートの仕事をしながら、佛教大学の通信講座で学び、見事教員免許を取得した。「養護教員の資格が欲しかったんやさ」。やがて富山県の知的障がい者施設へ実習に行く機会が訪れた。「それから2ヶ月が経った頃、富山の施設から生活支援員として、入所者と一緒に作業したり、その方たちのサポートをする仕事があるから、私に来るようにって」。富山の施設へと、冬場は1時間半、夏場で50分片道に費やし、毎日車を走らせた。「当時はトンネルが無くって、冬場は数河峠に迂回して、フルタイム勤務を始めたんです」。土日勤務も夜勤もあり、不規則な勤務が余儀なくされた。
その翌年、千人(ちひと)さん(68)と結ばれた。「主人の事は、私がまだ中学生の頃から、見知ってました。私が入っていたバレー部に青年団の方から、何人か一緒にプレーする人たちが見えるようになって、その中の一人が主人やったんです」。百合さんは照れ臭そうに笑った。

「主人は私の仕事に理解があって、子ども達がまだ小さかった頃も、夜勤の度に子どもたちの面倒を見てくれとったんやさな」。
知的障がい者施設には、10代~70代まで幅広い入所者がいた。「強度行動障害のある方は、言葉数が少なく、最初の頃は意思の疎通もままならなかったんやさ。でも同じ時間を共に過ごしている内に、何を訴えたいのかが、言葉の壁を越えて伝わってくるようになったの。不思議なもんやさ。多動性障害の方もいたし、異常なほど潔癖症の方もおったの。衣服の糸のほつれとかが、気になって気になって仕方ないようで、やがてそのイライラを爆発させて『こんなボロボロの服なんて、着てられるか!』って、一日に何度も何度も新しい服に着替えなきゃ気が済まない方もいたし。でもその方にして見たら、ちゃんとした服を着ていたいっていう気持ちが、最優先事項になってるわけだし・・・」。一概に知的障がいと言っても十人十色。対応も全て異なる。それぞれの入所者の心根を斟酌し、常にがっぷり四つで向き合わねばならない。「まだ私が施設に通うようになって間がない頃だったかな?他の支援員の方からは、勝手に外へ出て泥んこ遊びしたり、勝手な振る舞いの目立つ、問題児扱いされていた女の子がいたんです。でも私はそんな事、他の支援員の方から聞かされてなかったから、『あら、可愛い女の子。私この子が好きやわ』って思ったんです。それから彼女と色々接し、彼女の行動を見守っていたんです。そしたら問題児ってレッテルを貼られちゃった原因がわかったんです。支援員の方が『それじゃあ、Aグループさん〇〇へ行きますよ~っ』って言うと、彼女は自分が属しているグループが呼ばれたと勘違いし、Aグループに付いて行っちゃったんです。だから『勝手に出ていっちゃう問題児』となっちゃったんでしょうね。でもそれからは、ちゃんと彼女に『あなたはAグループじゃないから、Aグループに付いて行っちゃだめよ。Cグループさんって呼ばれたら、皆に付いて行きましょうね』って言うと、ちゃんと理解してくれるようになってね。つくづく、自分の物差しだけで他人を見ちゃいけないって痛感したんやさ」。彼女とは百合さんが部署異動となるまで、4年ほど心の交流が続いた。
百合さんは知的障がい者施設で、四半世紀25年勤め上げた。一番心に残っている入所者の方は?と問うた。すると「入所者の方たちの何人かが、富山の施設があったその地区で開催されていた、駅伝やマラソン大会に行きたいと言い出し、それを叶えてあげたいと、そんなマラソン大会に皆で何回か参加したんです。でもその中の一人の精神障がいの重かった方が、30代の若さで亡くなっちゃったんです。ご葬儀の後、お姉様がいらっしゃって『この子の人生の中で一番輝いていた時が、皆さんと一緒にマラソンしていた時でした。大会でいただいた、参加賞のTシャッをとても大事にしていましたから』と仰ったの。マラソンのコースを夢中になって走っている間は、たとえ知的障がいがあろうが無かろうが、誰かとの会話やコミュニケーションも、ましてや立ち居振る舞いも何一つ強要されはしない。唯一無二、心のバリアフリーが叶えられたひとときだったのかも・・・」。百合さんの瞳が潤んだ。

そんな富山での駅伝マラソンが縁を紡ぎ、富山の施設に勤めながらも、平成16(2004)年10月に、第1回「宮川マラソン」を開催。「丁度、飛騨市が合併した年で、『飛騨市に合併となるので、これまで宮川村としてやって来たマラソン大会は中止とします』って言われて。でもそうなると、宮川の子どもたちが、マラソンする機会も無くなるから、何とかしようと言う話になったんやさ」。コースは、宮川小学校をスタートし、ダム湖の横を通り牧戸の入口へ。そして折り返して、ゴールの宮川小学校へ。2km、3km、5kmのコースがあり、参加者の年齢制限はない。各コースが終わると、タイムを集計をする間、全員参加で2kmの「ジョグ&ウォーク」へと続く。「中には走り足りないって方もいて、2km、3km、5kmと2kmの『ジョグ&ウォーク』の全12kmを走られる兵(つわもの)もおいでになるんやさ」。百合さんが大笑い。

また、前のJAが閉店した時、近所の方が買い物も不便やろうでって、買い物支援をするために生協さんを呼んだり、買い物支援サロンを月1回始めたのが、地域複合サロン『よらまいか』です。これは9年前に始めたんです。最初は生協さんに協力いただいたりして、試験的に宮川振興事務所が主体となって、3回買い物支援のテストをしたんです。その1回目のテストの時に、『おめも、サクラで来い』って言われて、お手伝いして見たら、それがとっても面白くって面白くって!自分たちが売り子をやりたいって、そんなメンバーが6~7人集まって!それが『よらまいか』のスタートでした」。そんな事が縁で、宮川小学校学校運営協議会の委員を任され、やがて令和4(2022)年になると岐阜県で研修を受け、地域学校協働本部の本部長を任された。「簡単に言うと、地域と学校を結ぶ活動なんやさ。例えば、授業の一環として、『たんぼ』について勉強したいと言えば、農家の達人を紹介したり」。
現在の宮川小学校は、全校生徒8名。教師が6人。クラスは2学年で1クラスの計3クラス。「私らの頃とは違って少子化やし、運動会は地区合同で開催したり、修学旅行は隣の河合小学校と一緒に、しかも5~6年生一緒なんやさ」。そんな子どもも大人も沢山いた時代は、今はもう昔。だから百合さんは、一人二役どころか、一人十役を背負って、大好きな地域とのかかわりを、ライフワークにしているようだ。
「えっ、何で自給自足できる魔女になりたいかって?魔女の宅急便の主人公キキのお母さんは、古い血筋の魔女で、箒に乗って空を飛ぶのと、「くしゃみの薬」を作る魔法を受け継いでいたじゃない。だから私も、ユキノシタを煎じて解熱に使ったり、ヨモギを摘んで切り傷や虫刺されに生の葉の汁を塗ったり、そんな自給自足が出来る魔女を目指してるの」。百合さんは屈託なく笑った。

令和6(2024)年9月15日。飛騨市制20周年を記念して、「飛騨市リレーマラソン」を開催。それ以降も毎年9月に開催され続けている。「私たちは昔から宮川マラソンを続け、町民の健康増進を図って来てましたから、市制20周年の記念事業として何かやろまいかとなって、おまけに補助金もいただけるそうやで、それやったら『飛騨市リレーマラソン』をやろまいってなったんです」。飛騨古川ふれあい広場(サッカー場)周辺の、歩道と農道がコース。1周1.5kmを市制20周年に因んで20周、計30kmを走るリレーマラソンだ。参加は2人~10人まで可能で、それぞれが襷を繋ぎゴールを目指すというもの。「これがなかなか好評で、県内外からの参加者もあったんやさ」。百合さんは嬉しそうに笑った。

百合さんが高校生の頃、母方の祖母から言われた。「お盆の湯呑に水が入っている。それを自分の方に強引に引っ張ろうとすると、逆にその勢いで湯呑の水が相手に掛かってしまう。されど相手に『どうぞ』と静かに差し出せば、湯呑の水もこぼれはしない。何事も自分が自分がではなく、相手の立場を思いやらねばならない」と。

「私なんて、その時、その時、ただただ我武者羅に生きて来た、それだけのこと!でもここが私の人生の、現在地なんやさ」。 百合さんが支えた、百合さん自身を支えた、全力での地域愛は、全力を傾け地域の人間愛を育む、『尊い博愛』となった。

平澤さんイラスト

平澤さん写真