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飛騨びと言の葉綴り~宮川町・松永宗憲さん

印刷用ページを表示する掲載日:2026年2月16日更新

飛騨びとの言の葉綴り画像

文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治​

松永 宗憲(まつながむねのり)さん

宮川町『農業をデザインする男~長九郎農園 松永宗憲』

「子供の頃から私、野菜嫌いだったんですよ。でも飛騨の地で、婆ちゃんが育てたトマトを食べた事で克服出来ちゃったのかなぁ・・・。子供の頃、父の実家の飛騨に連れられてやってくると、婆ちゃんが私を畑に連れ出して、『やれ、これ食べろ、それ食べろ』って。もぎたてのトマトやらなんやらを食べさせてくれたんです。この地で採れた物を、この地の空気に包まれながら食べるんですから、とんでもなく美味しいに決まってます!だからその時の味を、ずっと私は脳裏に刻み続けていたんでしょうね」。宮川町杉原で長九郎農園を営む、松永宗憲さん(46)は、まだ雪に覆われた農地の、骨組みだけになったビニールハウスを見詰めた。真白な雪のように、とても穏やかで優しげな表情が、とにかく印象的だ。

宗憲さんは昭和54(1979)年に名古屋市で、4人兄妹の次男として誕生。飛騨市出身の父は、道路建設の会社に勤務。新設される道路工事に合わせ、家族と共に全国各地へと転勤を繰り返した。しかし小学校入学の昭和61(1986)年、一家は岐阜県可児市に居を据えた。「ですからそれからは、家族を残し父だけが一人で、転勤するようになったんです」。折しもその年は、テレビCMの「新語・流行語大賞」で「亭主元気で留守がいい」が、銀賞を受賞し皮肉にも大流行した年でもあった。

宗憲さんは高校を卒業するまで可児市で過ごし、静岡県の大学へと進学。機械工学科でエンジニアを目指した。「漠然とでしかなかったのですが、とにかくモノ作りに関わり合いたいってそんな想いで」。2001年に大学を卒業し、そのまま静岡県に工場のあった、外資系の輸送機器メーカーに入社。まずは現場を知るために、エレベーターやエスカレーターが設置されている現場に赴き、先輩社員について保守点検や据え付け作業に当たった。それから1年後、志望の設計部門へと異動。CAD(キャドとは、コンピュータ支援設計 computer aided designの略)を使って、設計作業に取り組んだ。しかし翌年、設計は設計でも、大学で専攻した機械設計ではなく、今度は配電図のプログラミングをする、電気の設計担当に。「同じ設計とは言え、まったくの畑違いでしたから、先輩に教えてもらいながら」。ところがその2年後の2004年。エレベーターやエスカレーターの国内製造が打ち切られ、工場は中国やスペインに移転。宗憲さんは配置転換を余儀なくされた。「異動先はロジスティクス部門でして、部品の配送や輸送の手配をしたり、部品メーカーのサプライヤーに部品製造を依頼したり。これまでの世界とはまた異なり、それなりに毎日が新鮮でもありました」。

それから2年後の2006年、高校時代の後輩でもあった、御嵩町出身のさやかさん(44)と結婚。「高校生の頃は、妻の顔を知っていましたが、お互い社会人になってから再会したんです…」。宗憲さんが照れ臭げに笑った。

そして2008年「もともと昔から、30歳くらいになったら、進路を変えて違う世界を見てみたいと、そんな想いをこれまた漠然と抱いていたんです。そしたらそこへ、リーマンショック(2008年9月に米大手投資銀行『リーマン・ブラザーズ』が経営破綻し、世界的に金融危機が拡大)が!」。30歳を目前に控え、製造業を中心に非正規雇用者が解雇される「派遣切り」が社会問題化した。「私の周りも静岡の工業地帯でしたから、潰れてゆく会社や工場もあって、どこもかしこも不穏な空気が蔓延しているようだったんです」。宗憲さんの人生にとって、大いなるターニングポイントが目の前に迫りつつあった。

「違う世界っていったいどんな世界なんだろう?でも食べて行かなきゃいけないし、食べるためにはどうすりゃいいんだ?食べることに繋がる仕事って?食べる事と言えば、…農業か?」。宗憲さんの自問自答は続いた。「そうは言うものの、ずっと頭の片隅に『農業』って言う選択肢もあったんです。飛騨には、爺ちゃんが居る!その時ふと、婆ちゃんが作った、子どもの頃に食べたあのトマトの味を思い出したんです」。これまでのエレベーターやエカスレーターと言った、極めて無機質なモノを相手にした人生とは真逆。大自然に挑み、大地の恵みを味方に付け、有機的な農作物を作り出す。悩み抜いた末、宗憲さんは妻に相談した。「そしたら『うん、いいよ』って…たった一言で片付けられちゃって。きっと妻も突然の事で、呆然としちゃったんでしょうねぇ」。

こうして宗憲さんにとって、違う世界への船出が始まった。ところがどっこい!「さて、どこで農業をしようか?そもそも農業ってどうやったらいいんだろうか?」。とても設計者の一人だった人間とは思えぬほど、余りにも無謀無計画すぎる危うい船出でもあった。「最初は農業するなら、静岡や神奈川辺りの太平洋側が良いかなって?それで調べて見ると静岡県主催の、大きな農家を巡るバスツアーってのがあったんです。まずは大きな農家さんで研修し、その農家さんの顔で農地を借りて農作業に励み、その方の顔を潰さぬようそこで暮らしながら、収穫した作物を指定された農協へ出荷する、とあったんです。何の縛りも無い自由な世界を標榜したにも関わらず、これじゃあ会社員の時と同じじゃないか!どうやらここじゃない!」。再び宗憲さんは、第2の人生のディスティネーション探しを始めた。そうして辿り着いたのが、岐阜県。「農業の基礎講座」のようなものを、無料で開催していることを知り、可児市にあった農業大学校へ。「まぁ、まったく灯台下暗しとはこのことでした。妻と共に可児市に戻り、10人ほどの受講生と共に農業の基礎を学んだんです。そしたら岐阜県内で独立して農業を始めるなら、県がサポートしてくれる、そんな有難い制度まであって!これぞ渡りに船って感じでした」。再び宗憲さんの脳裏に、婆ちゃんが作った子供の頃のあのトマトの味が蘇った。「岐阜県なら、爺ちゃんが飛騨市におるわぁ!そう言えば、ある人が飛騨市で農業やるなら、3つ。トマトかホウレン草か飛騨牛だって。農業を知らないながらも、トマトだったら出来るんじゃないかって?妻に相談すると、『そりゃあやっぱり、トマトでしょ!』と」。二人にとって未来への帳(とばり)が薄っすらと上がりかけた瞬間だった。それから三月後には、夫婦で飛騨市へと移住。飛騨市のトマト農家で、春から秋まで研修を積んだ。「もう本当に手取り足取りで教えていただきました。ビニールハウスの建て方から、作業に必要な機械や設備の扱い方まで」。そんな新しいこと尽くしの一年が、あっと言う間に過ぎて行った。

いよいよ2011年春の独立に向け準備が始まった。二反(20アール=2.000平方メートル)の畑を借り、7棟のトマト用ビニールハウスを2ヶ月ほど掛けて設置。「でも周りからは、『夫婦二人でやるんなら、四反はやらんと』って言われちゃいましたけど」。宗憲さんが懐かしむように笑った。ビニールハウスを建てながら、トマトの苗を愛しむ様に育てた。「丁度農園づくりの準備に、取り掛かろうとしていたそんな矢先でした。決して今でも忘れません。3月11日の、あの東日本大震災です。飛騨市では被害が無かったものの、やっぱり色んなことを考えるようになりましたねぇ」。そして6月、やっと7棟のハウスも完成。「言ってみたら、これから私たち夫婦が育ててゆく、主役となるトマト達の舞台が完成したってわけです」。初年度は、7棟のビニールハウスの内6棟に、師匠から手取り足取りで教えられた大玉の「桃太郎」、そして残りの1棟で有機栽培によるミニトマトの試験栽培が始まった。「実は研修期間でしたが、農薬を散布したその夜、酒を飲んだらメチャクチャに酔っぱらっちゃって?農薬を吸い込んだせいだろうか?私の体には、向いていないのか?もう辛くて辛くて仕方なかったんです。本当にこのままやって行けるんだろうか?とか、こんな辛い思いを妻にもさせちゃうんだろうか?って、考えてたんです。そしたら私より1年先輩で9つ年下の兄弟子が、有機栽培やってるよって。エエッ、何それ?そんな農薬に頼らない方法があるんだって事を知って、それで最初はビニールハウス1棟で、試験的にミニトマトの有機栽培をして見ようってことになったんです」。しかし宗憲さんは、理想と現実の狭間で苦悶した。「2年目には、大玉の桃太郎も有機栽培を試みたんですが、これが全然話にならないくらいダメでした。兄弟子と頻繁に情報交換を続けながら、失敗した年の肥料の配合量や水遣りの頻度などをデータ化し、全てを体系立てて肥料の設計に取り組んだりしたものです。もちろん今も試行錯誤の毎日です。大玉からミニトマトへと作付け量も移行しながら、ここ5年位でやっとこれでやって行けるかなぁと言った手応えを感じられるところまで来たんです」。常に妻の意見を取り入れ、二人三脚でミニトマトの品種も増やしていった。「家のミニトマトのファンは、圧倒的に女性ですねぇ。妻も『こんな色合いのミニトマトがあったら、お料理やお弁当にも彩が映えるんじゃない』とかって感じで、女性目線を意識した提案をしてくれるんです。味わいももちろん最重要ですが、それに劣らず見映えも欠かせません!」。宗憲さんが大切にしているのは、フィールドワーク。農閑期を利用し、長九郎農園のミニトマトを取り扱っている飲食店に出向いては、オーナーやお客さんの意見を直接聞いたり、愛用者の声をネットで収集したり。「お客様の顔が見えると、なにより私たちのモチベーションが自ずと上がりますからねぇ」。多くの女性ファンに支えられながら、長九郎農園のミニトマト作りは、今年で15年目を迎えた。

ずっと前から気になっていた、長九郎農園の名前の由来を問うた。すると「昔から松永家の屋号のようなもので、過去帳を遡ると江戸後期へ。恐らく名字帯刀が許されぬ農民でしたでしょうから、初代の『長九郎』を苗字代わりの屋号としていたんでしょう。そんな『長九郎』について、農園を始める前に爺ちゃんに聞いたことがあったんです。すると爺ちゃんが代々受け継いできたと言う、『長九郎』と彫られた昔の印を私に託してくれたんです。爺ちゃんも父も、もう今更『長九郎』の屋号を使いませんし、このまま消え果ててしまっては淋し過ぎる!そう思って私たちの農園に『長九郎』の屋号を冠することにしたんです」。先祖累代、農夫としての血は争えない。むしろ宗憲さんはそれを誇りとして、自らの農園に背負わせたのだ。先祖累代の農夫の血を身に纏い、ご先祖たちの加護を乞うかのように。

長九郎農園の作業は、一年の作業の終わりが始まりである。つまりすべての収穫を終えた時が、翌年の作業の始まりとなる。11月中旬にはハウスからビニールを外し骨組みだけにする。そしてハウスの中を空っぽにし、堆肥を入れながら耕す。今年の収穫への感謝と、翌年の収穫への祈りを込めながら。「毎年土壌調査をやってます。なんてったって土壌は命ですし、来年デビューするミニトマト達にとっての、ステージそのものですから」。そして4月から苗作り。「これが一番目が離せません。まるで幼子と一緒。苗それぞれの成長具合に合わせ、その苗に応じて水遣りを調整しながら。肥満児の苗にしないように、微妙な匙加減で。よく先輩方は、苗の声が聞こえるなんて仰いますがね、私はまだその域には達していません」。宗憲さんは自嘲気味に微笑んだ。5月末には、ハウスの畑へ定植。その後は、苗の成長を管理しながら、手で脇芽を取って、茎の誘引作業へ。「放っておくと茎は3mほどに伸びてしまい、手が届かなくなって作業し辛くなるので、誘引作業と言って支柱で支えて茎を縛ってやり、茎を斜めにしたりUの字にしたりするんです」。ポンプで水路から水を汲み上げ、ハウス内に張り巡らせたチューブから、毎日その日の天候や気温、それに湿度を鑑みながら、繊細な水遣りとなる。「ですから夏場は、何処へも行けません。なんてったってトマトは私たちの子ども同様、生き物なんですから!」。そしてついに7月中旬から出荷が始まる。まるで我が子さながらに、愛しむ様に一つ一つ手摘みされたミニトマトたちは、御包みに包まれるように、お客様の元へと出荷されて行く。収穫作業は10月末から11月まで続き、そのまま翌年の準備作業が始まる。「お客様が『ワーっ、美味しい』と言って下さる、そんな笑顔を想像しながら。そして私たちが、本当に美味しいと太鼓判の押せるトマトを、夫婦で愉しみながら栽培してるんです」。宗憲さんは、育ち盛りの二人の愛娘を見詰める眼差しで、雪に埋もれたビニールハウスを見詰めた。まるで春に生まれ来る、ミニトマトの沢山の娘たちに思いを馳せるかのように。

何と宗憲さんには別の顔があった。「実は私、小豆沢発電所もやってまして」。???は、発電所?「この沢に春になると、ジャバジャバと凄い量の雪解け水が流れて来るんです。これを水力発電に利用できないかって考え、知り合いに相談して調査して貰ったんです。そしたら水力発電に十分適した水量だと分かり、取水してタービンを回し、2021年から本格的な稼働が始まったんです。毎時50kw、およそ80世帯分の電力供給量となります」。地域の方々に、取水口に溜まる枯れ葉や小枝を取り除くゴミ取り作業をお願いし、冬場は雪が積もって大変でもあることから、宗憲さん自身が週に一度、沢の取水口まで300m登ってはゴミ取り作業を行っている。「農園の開業準備真っ最中に、あの東日本大震災があって、東京では水がないとか、やれ電気が停電したとか。そんな時に、衣食住プラス、エネルギーの必要性を痛感したんです。水力ならば、自然に負荷を掛けずして、自然の恵みだけでエネルギーとして供給出来るんですから」。ミニトマト作りだけをセルフ・プロデュースするだけじゃなく、そこから派生する地域の暮らしまでデザインしようとしている姿に、密かに感銘を受けていると!「実はもう一つ、宮川町のガソリンスタンドの運営も、2021年から有志とやってるんです」。一体全体この男は何者なのか?と思っていると!「宮川町に一軒だけガソリンスタンドがあったんですが、そこがついに閉店することになっちゃったんです。そうなると途端に地区の方たちから、不安の声が上がりまして。『冬場の煖房の燃料はどうするんや?』とか、『屋根の融雪に使うボイラーの燃料はどうすりゃいいんや?』と。それから『除雪するブルドーザーの給油が出来んとそれは大変や』と。そこで地区の有志が集まり、大変なのは承知で、ガソリンスタンドの運営を引き継いだんです」。雪深い地区にとっては、致命的とも言える生活インフラ。一旦は消えかけた灯が、地区の有志の支え合いで再び燈ったのだ。返す返すそのバイタリティーに感心していると!「去年から、米作りも始めたんです。家の裏の方が、米作りを止めると仰って…。でもそうなると、家の裏がそのまま耕作放棄地になっちゃうわけですよ。そしたら『おめが米作らんか?』って。それで知り合いの米農家さんに米作りを教わりつつ、手伝ってもらって始めたんです。そして気付いたんです。飛騨の土と共にお米が育って行く姿って、私の中の日本人のDNAのなせる業か、日々稲の成長を見ているだけでも、それがとってもいじらしくって素敵なんだって」。いみじくも2025年、世は令和の米騒動に揺れた。だが時を同じくして、飛騨の奥地で小さな米農家が産声を上げた。

「前職はデスクワークが中心。年がら年中、四季それぞれの暑さや寒さも感じることもなく、エアコンに管理された環境の中におりました。でも今、この飛騨の先祖の地に戻ってフィールドに出ると、四季折々の大自然の厳しさや大らかさを、身をもって知る事が出来たんです。やっぱり先祖の地に戻って本当に良かったし、最高に幸せでもあります。これからもトマトやお米も、まずは私たち自身が愉しみながら関わってゆく事で、きっときっとトマトもお米も美味しく育ってくれると、私はそう信じています」。

エレベーターやエスカレーターの設計者は、知らぬ間に先祖のDNAに導かれ飛騨の地へと流れ着いた。そして今度は、飛騨の地で農業そのものをデザインする男となった。

松永さんイラスト

 

松永さん写真