文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治
昭和の半ばに育った腕白坊主やお転婆娘たちは、登下校の途中でなんやかやとご近所のご隠居さんから、一度や二度くらい「こらっ、ちゃんと挨拶せんかぁ!」とか、「給食袋振り回してふざけたらかん!」などと、ありがたいお小言を賜ったものだ。
とは言え、学校から帰って、ご隠居さん家(ち)に回覧板でも届けに行こうものなら、「おお、なんや?お母ちゃんのお手伝いか。えらい子やなぁ」とかって、チリ紙に煎餅やら黄金糖を包んで、「ほれっ、お駄賃や」と。あの登下校の際に垣間見た、おっかない形相のご隠居さんとは真逆な好々爺で、ぼくの手におやつを握らせてくれたものだった。
「わしはなぁ、鼠餅線の古川小学校下の横断歩道の四ツ辻に立って、今年の11月ではや満20年や。毎朝子どもらが無事に通学し終わるまで、ただ見守りを続けて来ただけやさ」。男は菅笠を擡(もた)げ、陽に焼けた赤ら顔で笑った。
男の名は、古川町の菅沼明彦さん(79)。「傘寿までボランティア人生」を座右の銘に刻み、雨の日も雪の日も、地域の子どもたちの交通安全を見守っている。
「ある日の事やったわ。毎朝毎朝、通学時に顔を合わせとった女の子と、たまたま市役所で行き会ったもんで、いつものように声掛けたったんやさ。そしたら不審そうな顔してまって、『ポッカーン』と口開けとったんやて。あっ、いつもの笠被っとらんでやと思って、『笠地蔵のオ・ジ・チャンや』って言ったら、それでやっと分かって笑顔になってくれてなぁ。そう言やぁ、ある女の子なんて『オジチャン、これ付けとって』って、今流行りか知らんけど、動物が描かれた立体シールを、わしのスマホのケースに貼ってくれたんやて」。菅沼さんはスマホを取り出し、ケースに貼り付けた立体シールを、宝物のように広げて見せた。
菅沼さんは、昭和22(1947)年に、古川町で兼業農家の長男として誕生。生家の隣の古川小学校から古川中学へ。そして吉城高校卒業後、昭和40(1965)年4月、愛知県東海市の東海製鐵(株)に入社。「わしは冷延(れいえん)と呼ぶ、鉄のコイルをローラーで薄く伸ばす作業を担当しとったんやさ。24時間の三交代制。ところがそれがどうにも、三交代の生活リズムが合わなんだんやさ」。わずか半年後の10月に、古川へとUターン。すると翌月には、名古屋の昭和郵便局に欠員が生じ、臨時補助員として入社。簡保のセールスを担当した。「あんな当時は、郵便局の制服もないし、初めの頃は高校の学生服着て、カバン持って毎日集金に走り回ったもんやて」。名古屋での寮生活が始まった。ところがその翌年、昭和41(1966)年4月、父が突然の事故で身罷った。「苗代を作ろうと、耕運機に乗って踏切を渡ろうとしとった時に、突然耕運機が動かんようになってまって、そのまんま汽車と相撲取って轢かれてまったんやさ」。下の弟は名古屋に就職し、末の弟はまだ中学生の頃の痛ましい事故だった。突然の父の事故死により、菅沼さんには長男として、また家長としての責任が重く圧し掛かった。「そんな状況やったで、飛騨への転勤希望を申し出たんやさ」。そして昭和43(1968)年4月、岐阜県吉城郡古川町の飛騨古川郵便局への転勤が叶った。配達業務や貯金や保険の営業として、古川町一円をバイクで駆け巡った。「今思うと、給料貰って自分のためだけに、自由にお金が使えたのは、親父が亡くなる前までやった。でもそれ以降は、長男で家長やで、家にお金入れやなかんし」。
昭和45(1970)年、古川町体育協会に入会。「郵便局の先輩が、手伝って欲しいって言うもんやで」。体育協会が主催する形で、古川町野球大会やママさんソフトボール大会、バレー大会にスキー大会と。「市民の誰でもが参加でき、遊び感覚でスポーツを楽しむ」をコンセプトに、毎週日曜の度にボランティアとして協会運営に奔走した。「まだそんな頃は、土曜日は半ドンで今のような週休二日やないし、日曜の度に家族サービスを犠牲にさせてまって、協会のボランティア活動に精出したもんやさ」。当時は、野球もソフトボールも大変な人気で、官公庁や民間企業にも職場チームが数多く存在した。昭和47(1972)年から始まった、第1回「飛騨市ふるかわ元旦マラソン」の立ち上げから運営にも携わった。
昭和48(1973)年、世は第一次オイルショックに揺れた。そんな頃、菅沼さんの元へ見合い話しが舞い込んだ。「仲良うしてもらっとった、近所のお爺ちゃんが、『ええ娘がおるけど、オメエ嫁にどや?』って。『その娘は、毎朝高山へ汽車で仕事に通っとるで、いっぺんオメエも一緒の汽車に乗り合わせて、自分の目で確かめて見たらどや?』って言わはるもんやで、汽車に乗ってどれどれってな感じで、目星をつけたもんやさ」。晴れて昭和49(1974)年12月に、百合子さんと結ばれ、三男を授かった。「わしも男3人兄弟で、子どもも男3人。おまけに孫二人も男なんやさ。唯一雛様は、雌の飼い犬だけ」。菅沼さんが大笑い。
「そうこうする内に、わしがソフトボール部の部長になったんやさ。昔のソフトボールは、男女混合チームやったけど、ソフトの技術が上がって来ると、男女混合では力の差がありすぎて危ないって事になったんや。それから女性は、ママさんソフトって括りになって、ピークの昭和55(1980)年頃には6~7チームもあった。みんな朝早うに家事のまわし済ませて、それから早朝練習やって、それぞれ職場に行きよったんやで」。ところがスポーツの流行り廃りも、時代の変遷と歩調を合わせ移り変わった。「ビーチバレーが出て来てから、だんだんママさんソフトも廃れてまった」。
平成7(1995)年。「高山へ転勤が決まったんやて。そうなると体育協会副会長の仕事も、なかなかこれまで通りにも行かんくなるし、そろそろ潮時かなぁと、後進に託して辞めさせてもらったんやさ」。郵便局員として、高山や神岡など飛騨一円への転勤を繰り返した。
そして平成17(2005)年、58歳で郵便局を退職。2年後の平成19(2007)年1月、町内21区の区長に。「毎月20日の日に、ず~っと昔から続いとる、交通指導をやらせてもらうようになったんやさ」。ところがその年の11月に入ると、菅沼さんは毎日毎日「止まって下さい」と染め抜かれた旗を片手に、子どもたちの通学を見守りはじめた。「古川小学校の下にある四ツ辻には、昔掘っ建て小屋があって、そりゃあもう見通しが悪かったんやさ。その昔には、死亡事故もあった場所でなぁ。まぁ、わしんとこから歩いて1分もかからんとこやで、朝飯食ってテレビのドラマ観て、それからヨッコラショっと菅笠被って旗持って、四ツ辻へ向かうんやさ」。毎朝7時30分から7時50分まで、車道に「止まって下さい」の旗を翻し、笠地蔵のオジチャンは子どもらを見送る。「それがなぁ、中にはいっつも遅れて来る子もおってなぁ。そう言う時は『オジチャン、テレビ見なかんで、早う来い!』って呼んだるんやさ」。子どもたちが多かったピークの頃は、一度に60~80人ほどを毎朝見送った。「ところが少子化やで、畦畑の方から通学する小学生の子らが、4年ほど前からいなくなってまったんやさ。そう言やあ昔、畦畑から通学しとる4人の坊主がおってなぁ。その子らも今や、23歳くらいになっとるはずやで、立派な社会人やろ。その子らを小学校1年の時から中学3年まで9年間、この場所で見守ったんやで、よう忘れんのやさ。思えばその子らだけじゃなく、この場所で見守って来た子どもらの顔は、誰一人として忘れられんわ。でもその子らにとっちゃ、通りすがりの四ツ辻に立つ、わしなんか笠地蔵のオジチャンかも知れん。でもわしからしたら、20年で延べ1.000人以上の子どもらを見守らせて貰ったわけやで、わしの方が逆にただただ感謝ばっかりなんやさ」。ある年の卒業式前日の事だった。いつもの朝のように、菅沼さんが四ツ辻に立って子どもらを見守っていると、6年生の女の子に袖を引かれた。「『オジチャン、6年間ありがとう』って、封筒に入った手紙を手渡して来たんやて。その手紙には、『オジチャンのお陰で、無事6年間通学でき、明日卒業式を迎えることになりました。オジチャン、ありがとう』って。わしにしたら、それこそ何よりの勲章そのものやった。これまでの20年間でいただいた、そんな勲章のような手紙は、今でも全部大切に仕舞ってあるんやて」。初心(うぶ)な少年がラブレターでも貰ったかのように、菅沼さんはモジモジしながら照れ臭げに笑った。
数えの卒寿を迎えた菅沼さんにとって、四ツ辻に立って子どもらを見守り続けた20年は、80年の人生の1/4に値する。それだけに延べ1.000人以上の子どもらの中でも、特に忘れ得ぬ子どもらもいた。「畦畑から来る子や上町から来る子らは、通学時間が近所の子に比べると長いんやさ。だから特に冬場なんて、低学年の子らは我慢できずに、おしっこを漏らしてまっとる子もおるんやて。そんな時は、周りの皆に気付かれんように、側へ寄ってって『直ぐに保健室へ行って、パンツ替えてまえ』ってゆうたるんやさ。何でも子どもらの心に寄り添ってやらんと、子どもの心を傷付けてまうで」。ボランティアの対価は、子どもらの屈託のない笑顔だと、菅沼さんが誇らしげにつぶやいた。
「そう言えば20年前、畦畑から通っとった、今32歳になる子がおるんやさ。もしもその子が、早くに結婚しとって子を成しとったとしたら、その子の子どもが同じようにこの道で、学校へ通っとるかも知れん。そしたら親子二代に渡って、わしが見守らせて貰っとることになるんやで、それもまた感慨深いもんや」。菅沼さんは、窓から四ツ辻を眺めた。
「あそこの四ツ辻に立たせて貰っとるお陰で、わしの周りの世界も広がったんや。子どもらが大きくなって、いつの日にか、四ツ辻の笠地蔵のオジチャンのこと、想い出してくれればそれでええんやさ。まぁ、笠被っとるわしの前で、数珠持って拝んでまうと、それまた怖えけどなぁ。あっ、そう言えばいつやったか、笠地蔵へのお供えやないけど、女の子が『オジチャン、これ修学旅行のお土産』って、お菓子を買って来てくれたことがあったんやさ。小さな個包装の菓子やったけど、そりゃあ嬉しかったわ。『ごっつぉ様よ!』ってありがたくいただいたけど、考えて見たら僅かばかりの小遣いの中から、わざわざ笠地蔵のオジチャンにまで買って来てくれたんやと思ったら・・・ちょっと胸がジーンとしてまって・・・」。菅沼さんの言葉が、心なしかくぐもった。
なぜそこまでボランティア活動に没頭したかと問うた。すると、「当時は民営化前で、郵便局員も公務員やったで、職員に採用された時、宣誓書を読まされるんやて。『国民全体の奉仕者たれ』って。どうにもこうにも、その文言がずっと頭にこびりついてまっとったんやさ」。そう菅沼さんは、恍(とぼ)けて見せた。
「まぁ、『傘寿までボランティア人生』の座右の銘は一旦返上し、これからも命ある限り笠地蔵のオジチャンを続けるつもりでおるんやさ。そっしゃ今度の座右の銘は、『卒寿までボランティア人生』やなぁ」。菅沼さんが嬉しそうに笑った。
毎朝四ツ辻に立ち続ける、古川町の笠地蔵、菅沼明彦。祠があるわけでも無ければ、地蔵尊幕が張られているわけでもない。まるで笠地蔵に憑依したかのような老人が、いずくともなく朝の20分間だけ四ツ辻に現れ、すべからく子どもらの交通安全を見守る。
そもそもお地蔵様は「大地の如く安んじて動かず、秘蔵の如く深く思慮する」と言われ、慈悲と大願の菩薩であり衆生を救済するそうである。
今日も菅沼さんは、テレビの朝ドラを観た後、笠地蔵に憑依し四ツ辻へと向かう。

