文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治
古川まつり会館の売店で、ヨーロピアンらしき品のある老夫婦が、吊るし飾りの小さな鯉を手に取っている。ついさっき歩いたであろう、白壁土蔵の瀬戸川を優雅に泳ぐ、色鮮やかな錦鯉の妖艶な姿を想い浮かべているかのように。その他の吊るし飾りの題材も、飛騨古川に咲く花や、里山を気ままに飛び回る鳥たちと、飛騨の大自然に育くまれた動植物が、魅惑的なモチーフとなっている。「ここ古川では10年ほど前に、上野(かみの)の方が中心になって始められて、この吊るし飾りが盛んになって来たんやさ。正絹の古布を一針一針心を込めて縫い上げ、動植物を模った型の中へ綿を詰め込み、それを縫い綴じた自然界の意匠を形作る作品」。吊るし飾りの醸す、小さく雅な世界に迷い込んでいると、売店の姉さが何とも気さくに声を掛けてくれた。
手仕事の温もりが直に伝わる、吊るし飾りの魅力も然ることながら、この地で吊るし飾りを根付かせようとされた、そんな言い出しっぺの方に益々興味が湧いた。
何とか売店の姉さを口説き落とし、吊るし飾りの言い出しっぺの方にご連絡をいただき、ご本人のご許可をお取りいただいた上で、やっとこさお名前とご住所をお教えいただいて、その足で古川町上野のご自宅へと向かった。
入り口の引き戸を開け、玄関へと一歩足を踏み入れる。するとどうだ!吹き抜けになった三和土は広く、とても開放感がある。明り取りの窓から射す柔らかな光。上がり框の手前で、客を迎えるかのように配置された吊るし飾りが、優しい光沢を煌めかせていた。
「飛騨古川の吊るし飾りの魅力は、何と言ったって瀬戸川をゆったりと泳ぐ鯉やでねぇ」。玄関先で迎えてくれたのは、吊るし飾り作家の谷口充希子(みきこ/旧名は篤子)さん(77)だ。充希子さんは昭和22年に揖斐郡大野町で誕生。高校を出ると旧岐阜県経済連(現、全農)に就職。「私らの頃は団塊の世代やったで、同期が30人ほどおりましたでねぇ」。その同期の中に、生涯連れ添う事になる夫義隆さん(79)がいたとは露知らず。「岐阜県全域の地図で、吉城郡古川町ってのは知ってましたけど、まさか主人が吉城の人とは知らなくってねぇ。てっきり岐阜市の人やと勝手に思い込んでて」。それから3年。縁が紡がれ、谷口家へと嫁入り。とは言え、義隆さんも充希子さんも岐阜市の全農勤務のため、新居は岐阜市に構えることに。そして2年後、晴れて長女を授かり退職。さらに3年後には次女が誕生。新婚家庭に寿ぎが続いた。「ところが!まだ大野町の産院で、産まれたばかりの次女と入院してた時!忘れもしません!昭和48年2月の事です。古川の義母が屋根から落ちて、脊髄を損傷し9ヵ月入院する羽目に!」。谷口家の跡取りである義隆さんは、事情が事情なだけに斟酌され、飛騨の支店転勤となり、一家全員で古川の実家へ急遽引っ越した。「ちょうど5月20日にここへ引っ越しましてねぇ。しかも10人家族の大所帯の中へ!」。何もかもが分からない事ばかりで、戸惑いながらも日々子育てに追われた。「そしたら今でもよう忘れませんって!6月5日の夜でした。お風呂へ入ったら、湯船の中に草が入っとって、もうビックリ!まさか端午の節句が、一月遅れの6月5日だとは思いもしませんでしたから!」。大家族での同居が始まると、これまた目から鱗のような毎日が!「大婆さまは、戸市からお籠に乗って、提灯行列で嫁いでおいでたそうで。日がな一日着物姿のまんま炬燵に入って、何をするでもなく、ず~っと座ってはるような人でした。何でも『戸市から古川まで、私ん家やった』と言わはるくらいの大地主の家柄で、小作が16人もいて、乳母日傘で育ったお嬢様やったそうです」。そんな大婆さまとの、ぎこちない生活が、義母の退院まで9ヵ月も続いた。
次女も3歳になって、保育園へと通い始めた頃。「『何でここらぁは昼間、女衆が人っ子一人おいでんのやろう?』と、前々からそう思っとったんですよ。でもよう考えたら、工場へ行かはったり、縫製の仕事をして見えたり。とにかく飛騨の女性は、みんな働きもんやと気付いて」。充希子さんも何か仕事をしたいと思うようになっていった。「でも私、取柄もないし・・・。昔から料理は好きやったで、喫茶店でも始めて見ようかなって」。岐阜市内の喫茶学校に頼み込み、午前・午後・夜間の三部門を、通しで学ぶと言う詰め込み式を特別に認めてもらい、1週間ホテル住まいを決め込んだ。そして昭和51年、古川駅の横で喫茶「葵」を開業。「最初の3ヵ月は、だ~れもお客も来ずに、閑古鳥が鳴く毎日。ひょっこりやって来るお客さんは、せいぜい1日に12~13人。しかも男衆ばかり。当時はまだ、女の人らが喫茶店に入って、コーヒー飲むなんて有り得ないようなそんな時代でしたろぅ。それに当時は喫茶店も、バーやキャバレーと一緒のように勘違いされ、夕方店閉めて帰って来ると『なんや、はや帰って来たんかー!これからの時間が稼ぎ時やろ?』なんて言わはるし」。しかしそんなこんなで3ヵ月が過ぎた。「そしたらボチボチとやっと客が来てくれるようになって。お客さんと会話が増えると、『なんやーあんたぁ、上野の田舎から出て来とんかなぁ』って。どうやら他所もんやと思われとったみたいでねぇ。それやで知っとるもんもおらんで、最初の内はだぁ~れも寄り付かんかったんやと、やっと悟ったんやさ」。若い大工さんやら、青年団の若い衆が足蹴く通うようになり、知らぬ間に喫茶「葵」は、古川駅周辺で立派に市民権を得ることとなった。
それから18年。岐阜市に単身赴任中だった義隆さんが体調を崩した。「主人がもう全農辞めて古川へ戻ろうかと言いだしましてねぇ。でも次女はまだ、神戸の大学に行ってる頃やったし、私の喫茶店の収入だけじゃとても無理やし・・・。だったら喫茶店を畳んで、私が主人の赴任先で体調の管理をするからって」。常連客に惜しまれながら、喫茶「葵」は18年の歴史に幕を下ろした。「お客さんらが皆で、送別会をやってくれて。『何で店閉めるんやって』、もう泣いて泣いて」。惜しまれながらも、充希子さんは岐阜市へと向かった。
それから1年。全農の配慮で義隆さんは、高山支店転勤となり、充希子さんと共に古川へと再び舞い戻った。「そしたら、『なんやぁわずか1年で帰って来るんやったら、店閉めんでもよかったに!』って」。馴染み客から手荒い歓迎を受けた。「そうこうしとる内に、『あんた、今なんにもやってないんやったら、婦人会の副会長やってくれん?』って言わはって」。災害時や冠婚葬祭の炊き出しなど、婦人会の活動に身を投じることに。「だって古川って、『明日祭りやで、仕事休むでなぁ』って、平気で通用するような気風のある町でしょ!最初の頃は『なにそれ?祭りだから仕事休むって?』なんてビックリやったけど、そんな粋な気風の古川文化にも、いつの間にか慣れ親しめるようになって、婦人会の活動も愉しくってねぇ」。折しも、家庭ゴミの分別収集を推進する、「容器包装リサイクル法」が来年の平成9年4月に施行される前年の事だった。「それまで古川町には、公徳箱(大正末期から昭和初期の頃、街道筋に置かれていた、硝子や釘などの危険物を入れる箱。当時は砂利道で、通行人の多くはせいぜいが草鞋履き。砂利にガラス片や釘が紛れ、それを踏み抜いたら一大事。砂利道でそうしたガラス片や錆釘を見つけたら、公徳箱に入れる習慣があった)が置かれていて、ガラス瓶やら缶に蛍光灯とか、何でもかでも入れてあったものやった。でも来年からは、家庭ゴミの分別収集が始まるし、婦人会としても各家庭にそれを伝えてかんとならん。どうしようってことになって。そしたら会長さんが『家庭ゴミの分別収集をテーマにした、寸劇でもやろか?婦人会の皆が役を演じて、町内を回ろう』って言わはって」。婦人会の会長さんが脚本を担当し、婦人会のメンバーがそれぞれの役柄に扮し、各町内で寸劇が披露された。「お父ちゃん役の人は、籠を負いねたまんまビール飲んで酔っ払ってまって、空き缶をそこらにほかしてまったり。そんな日々の暮らしの中にある、家庭ゴミを分別する必要性を訴えた寸劇やったんです。そしたらまたこれが受けて受けて!他所の町から見学者がおいでるほど、古川は奇麗な町になって!ゴミの回収をする業者の方が、『こんなに奇麗に瓶も缶も洗って、きちんと分別してあるのは、ここだけや』って言わはるほどやった」。その話が広まり、当時の環境大臣から婦人会は表彰を受けた。
そうこうしていると今度は、「『2週間後に告示される、古川町議会選挙があるで、婦人会からも誰か一人推薦してくれんか』って話が飛び込んで来て。すると婦人会の会長さんから『こん中で一番若いのはあんたやで、あんたが立候補しなさい。どうやら定員に満たないらしいし、恐らく無投票のはずやで、たった1日我慢したらそれでええ』って」。副会長だった充希子さんに白羽の矢が立った。
「主人にそのことを話したら『そんなもん、もう離婚や!』って言われてまうし。とは言え、もう今更、立候補も断れんし。それに選挙のポスターだって、印刷せんならんし。ところが印刷会社にお願いしたら『もう選挙ポスターは締め切ったわ』と言われ、それでも何とか別の所で無理やりに印刷してもらって。そしたら今度は、ポスターを貼りに行かなかん。そう思って婦人会に手伝いを要請したんやさ。そしたら『婦人会は町から補助金を貰っとるで、特定の候補者の応援は出来ん』とケンモホロロ。梯子掛けて人を登らせといて、とっとと梯子を外されたようやった」。しかし喫茶「葵」時代のお客さんらが10数人と、近所の方々が手伝ってくれ、着々と選挙の準備も進んだ。「どうやら無投票らしいで、当選した時に目入れするダルマを用意せなかんって誰かが言い出して。それはそうと、ダルマの片目を予め入れとかなあかんやろう?って気が付いたのはいいものの、片目入れるのは右目やろかそれとも左目やろか?ってな調子。誰かが役場の総務課で、教えてもらったらええって言わはるんやさ。そしたら後日、役場の方が『選挙前から、ダルマの目入れはどっちかって聞いて来たのは、あんたくらいなもんやで』と言わはってなぁ」。自家用車を選挙カーに仕立て、知り合いに鴬嬢を引き受けてもらい、曲がりなりにも出陣式へと漕ぎ着けた。「『政治は生活の一部。生活者目線で、生活者の声を拾い上げ、女性の目線も加味し、弱者にきちんと目を向ける取り組みを図り、町政に反映させたい!』と、そんな文句が町議選の初鳴きやった」。出陣式を終えると、選挙カーに乗り込み町内を巡回。充希子さんは純白の手袋を付け、通りすがりの町民に必死で手を振り続けた。ようやく初日の選挙運動時間を終え、選挙事務所に戻り選挙カーの後部座席から、ヨッコラショと降り立った。すると新聞記者の知り合いが近寄り小声で、「谷口さん、あんたぁ、候補者は助手席に乗らなあかんのやぞ」と。そんなこんなを何とか乗り越え、1997年に晴れて古川町議会議員のバッチを手にした。
ちょうどそんな頃。地元の大工さんが充希子さんの元を訪ねて来た。「旧小鷹利村の向林利明さんゆうて、地元じゃあ物凄く歌の上手い方として有名な方で。私もその何年か前にスナックで唄わはるの聴いて、とんでもなく歌の上手い方やなぁと思っとったんやさ。そしたら突然私に、デビュー曲を作詞して欲しいって!」。「果たして私なんかの作詞で本当にいいんやろか」と悩みながらも、充希子さんの脳裏に歌のタイトル「匠」が直ぐに舞い降りた。
♪苦労惜しむな 生きてく限り 夢を掲げて 貫け男なら そんな親父の 言葉を胸に 技を磨いて 心も磨き 親子三代飛騨の匠が道標♪
詩は、わずか二日で完成。1997年、クラウンレコードからCDとして発売された。
作詞家「谷口充希子」の誕生だった。「実は昔姓名判断の方から、本名の『篤子』のまま谷口家に嫁ぐと、『谷口篤子』となって、物凄く強い名前になり過ぎて、未亡人になると言われ、未亡人にはなりたくなかったから、前にある方に見てもらった『充希子』を名乗ろうって思っとったんやさ。作詞家なら、ペンネームでもええやろうって」。
2001年には、古川町議会議員に再選。さらに2004年には、飛騨市の市町村合併と同時に町議を辞し、飛騨市議会議員選挙で当選。2008年に一旦議員を辞職するも、2012年に再び市議選に立候補。「また、定員割れらしいでと、周りに乞われたんやさ」。再び市議を1期務めた。
そして2016年、市議会議員の任期を全う。「議員を辞めたら、何か好きな事をやりたい!」。故郷西美濃、墨俣で見た吊るし雛が忘れられなかった。「ならば第二の故郷飛騨古川で、吊るし飾りをやってみよう!古川の町中に飾って、観光客の滞在時間を増やしたい!」。充希子さんはそんな思いに駆られ、吊るし飾り研究会を立ち上げ、会員を募集した。「そしたら何と38人の方が応募しなはって」。月に2回、公民館に集まり勉強会が始まった。「古川の方は、どなたも手先の器用な方が多くってねぇ」。古川町での展示会も回を重ね、毎回のように来場される方々も増えた。「私らだけの費用じゃ、なかなか賄えんで、市の町づくり事業に乗っかって補助金をいただいたんやさ」。補助金の申請も市議の経験があるだけにお手の物。「会の皆さんとバスを貸し切って、紅花で有名な山形県の酒田市に見学に行ったり。翌年は吊るし飾り発祥の地として知られる、静岡県の稲取も訪問したんやさ」。
吊るし飾りの吊るし台は、地元の大工さんが工夫を凝らし、上部に雲をあしらった高さ2mほどのもの。雲の下には、紅白の丸い輪っかが取り付けられ、そこから5本吊りや7本吊りと呼ぶ、奇数の人五(じんご)紐とか人八(じんぱち)紐が縦糸として吊り下げられ、そこに古布で模られた動植物の型の中へ綿を詰め込み、手縫いで仕上げられた動植物の飾りが取り付けられる。「丹生川で吊るし飾りをやっとられる方が、展示会に何度もおいでて。『どうして私ら丹生川の飾りと、古川の飾りとは、何がどう違うのやろう?』って仰ったんです。丹生川の方はレーヨンの古布を使って見えて、私らは最初っから正絹の古布を使うって決めとったもんだから、やっぱり絹と化繊の、素材そのものが発する光沢の違いなんやろうねぇ」。
充希子さんは、飛騨の古川らしい吊るし飾りを、何としても作り出したいと、毎日のように池の辺で優雅に泳ぐ鯉を眺めた。そしてミキコオリジナルの「瀬戸川の鯉」の型紙が完成。「コイノボリの鯉や、吊るし飾りの本で紹介されてる鯉は、みんなどれもこれも口が大きいんやさ。でも瀬戸川の鯉は、みんなどれもこれもおちょぼ口」。古布の反物を広げ、その柄行を矯めつ眇めつ眺め、瀬戸川の鯉に相応しい柄行を選び抜き、断腸の思いで反物の一部を裁断。そして丸々と太った瀬戸川の鯉のように、古布を型紙通りに一針一針縫い上げ、そこに綿を詰め込み縫い綴じる。「ところがある日の事。孫が飛んできて、『お婆ちゃん!池の鯉が死んどるで、掬い上げて埋めてやらんと』って言うんです。孫にせかされ、死んでしまった鯉をタモで掬い上げて見てビックリ!それまで私が眺めとった鯉は、川面から見える上半分だけ。川底側の下半分の胸鰭や腹鰭に尾鰭が縫い付けられていない事に、初めて気が付いたんやさ。まぁ、全く持って、家の池で息絶えた鯉のお手柄お手柄!」。充希子さんの瀬戸川の鯉は、中国や台湾からの観光客に人気となった。「なんでも鯉は、神の遣いとかって縁起物なんやって」。
一方6年前から、古川中学校の1年生向けの家庭科の時間に、吊るし飾りの出前授業も始まった。会のメンバーが6~7人で出掛け、2時間で一つの吊るし飾りを制作する。「これがねぇ、あにはからんや、男子生徒の方が女子よりも数段上手いんやさ。まぁ、世の一流の料理人にしろ、ファッションデザイナーにしろ、やっぱり男衆の腕には敵わんでなぁ!」。
またそんな頃、飛騨市の姉妹都市でもある、台湾の新港郷から文化交流の一環として吊るし飾りの講習をと招聘された。「去年新港郷の市庁舎が新しくなって、飛騨市から吊るし飾りを寄贈していただいたんやさ。だから今でも、遥かなる台湾の地で、私たちが一針一針縫い上げた、郷土の動植物である瀬戸川の鯉や椿の花の吊るし飾りが、台湾の暖かな風にゆったりと揺られているはず。両市の友好の懸け橋として!」。充希子さんは、三和土で微かに揺れる吊るし飾りを、感慨深げに眺めた。「飛騨古川は『鯉』の里!『恋』しさ募らせ、飛騨古川へ逢いに『来い』!」。充希子さんの心の声が、ぼくの耳元を吹き抜けていった。
今年も宮川の空を泳ぐ、大きなコイノボリを、飽きることなく充希子さんは眺めていた。
谷口家に嫁ぎ早56年。話し好きの充希子さんの言葉に、故郷の西美濃弁はもうどこにも見当たらない。今では何とも温もりのある飛騨弁が、すっかり板に付いた。同時に故郷の誇りでもあった西美濃の吊るし雛は、半世紀の時を駆け、飛騨古川の吊るし飾りとなって、この地を訪れる観光客の目を和ませ続ける。
(♪♪は、向林利明氏の「匠」より引用)