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起し太鼓を中心に調査・研究の成果を報告

印刷用ページを表示する掲載日:2024年7月2日更新

6月28日(金) 古川町公民館

古川祭の歴史や史料などをまとめた書籍『古川祭史』の発刊に向けて調査・研究を進めている飛騨市古川祭史編集委員会(福井重治委員長、委員6人)が、これまでの調査内容について途中経過を報告する「第4回古川祭史市民講演会」を古川町公民館で開きました。

今回は、起し太鼓に焦点をあて、同編集委員会の福井委員長が「起し太鼓と若連中」、同副委員長の本永義博さんが「古写真から見えてくる起し太鼓の歴史」と題し、昔の写真や絵図、動画も紹介しながら、さまざまな記録から読み取れる事実、考察などを紹介。会場には市民や関係者など100人以上が訪れました。

福井委員長は、活気ある若者らが起し太鼓の執行をけん引してきた一方、野放図な振る舞いが頻発したため、さまざまな規制がしかれたことを紹介。一時は付け太鼓廃止の案などが提出されましたが、住民の反発によって退けられた経緯なども説明しました。初代古川町長の桐山玄豹による日記なども示しながら、起し太鼓には「糸引き」の女性らも多く来たことから男衆にも活気が出て大変なにぎわいになったこと、秋祭りの時期は養蚕の繁忙期だったため製糸企業から提案があって祭りを春に移した可能性があることなども指摘しました。一時は「日陰者扱い」までされた付け太鼓を、戦争中も戦後まもないころも若者たちが守り育んできたことを強調しました。

本永さんは、昔撮影された起し太鼓執行の写真と今の写真などを見比べながら、その変遷や現在との違いなどを紹介しました。上半身裸に股引、さらし巻き姿という現在の起し太鼓出役者の統一された服装に比べ、大正11年は太鼓打ちは上半身裸に股引、はちまき、わらじ姿ですが、非常に寒い年であったせいか櫓下の人は手ぬぐいでほおかぶりをして胴丸を着るなど、統一されていなかったことなどを指摘。年を追うごとに統一が進んできたことを説明しました。また、大正期に入ってから櫓を組んで大太鼓を載せるようになり、徐々に櫓が高くなっていったことも紹介。

昭和9年に撮影された起し太鼓の映像を見ながら、付け太鼓の一部にかなり大きな太鼓が付けられていたことが分かると指摘し、「一部の台組に残されている大きめの太鼓が、昔の付け太鼓だったのはないか」「大野政雄氏の見解にもあるように、主事太鼓に付けようと競うようになり大きな音を出す必要がなくなったため、付け太鼓は小さくなったのでは」などと考察を述べました。

発表を聞いた古川町壱之町の後藤洋平さんは「昔の写真や映像を見ながら、起し太鼓が変化してきたこと、若い人たちが中心となって起し太鼓を続けてきてくれた背景が分かりました。『やんちゃ』という言葉がありますが、昔からそうだったんだなと実感しました。起し太鼓について、また違った形で学べたので有意義でした。もっと時間が長くても良かったですね」と感想を話していました。

当日の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子

古川祭史講演会の様子​​​

古川祭史講演会の様子​​