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中谷節子さん(宮川町) 

印刷用ページを表示する掲載日:2024年4月4日更新

飛騨びとの言の葉綴り画像

文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治​

宮川町 中谷節子(なかたにせつこ)さん

宮川町種蔵~「茗荷作りは、数多の縁のなせる冥加なり」

​ぼくらが種蔵を訪ねたのは、2024年2月3日の節分。明日は立春だと言うのに、折からの雪が静かに静かに、深々と降り積もっていた。そんな節分寒波の朝。種蔵の集落は、辺り一面がすっぽりと雪に覆われていた。黒い板蔵だけが、あちらこちらに頭を突き出しているだけ。種蔵自慢の石積みの棚田も、何もかもすべてが雪に呑み込まれてしまっていた。
 
「この雪の布団を着せてもらって、茗荷たちは寒さに耐えながら、春が来るのを今か今かと、じーっと待っとるんやさ」。
  
種蔵で「茗荷の師匠」と呼ばれる、中谷節子さんの声がした。節子さんは八十寿を迎えた今でも、春が訪れると家の前の畑へ出て、せっせと茗荷作りに勤しむ。
    
節子さんは昭和19 年、高山の旧大八賀村の農家で、五男三女の 6 番目として誕生。そして縁あって25歳の年に、種蔵の中谷家へ嫁として迎えられた。「うちらの大八賀村もたいがい田舎やったけど、こっちの方がもうちっと上かも知らん。そんでも近くに汽車が通っとるからねぇ」。節子さんにとって高山本線のレールは、見知らぬ土地に嫁いだ心細さや不安を和らげてくれる、故郷大八賀村と嫁ぎ先の種蔵を結ぶ心の架け橋だった。「それこそ当時は、花嫁衣裳着たまんま、獣道通ってここまで静々と来たもんやさ」。
  
祝言と宴は三日三晩続いた。「一日目は花嫁衣装で三々九度を交わして、二日目からは普通の着物着て・・・はや忘れてまった」。晴れて種蔵集落の一員となった。
「私はこんな、しゃべりばちやもんで、直ぐに種蔵に溶け込めたんやさ。逆に『ようこんな田舎まで嫁に来てくれた』って、歓迎してもらえたくらいや」。
     
​種蔵での茗荷作りは、昭和 45 年から始まった減反政策の影響に伴う。「昭和52~53年頃、宮川町が茗荷を特産品にしようと、茗荷の根を斡旋してくだれて。それでお姑さんが 茗荷作りを始めて、私も勤めに行きながらちょいちょい手伝っとったんやさ」。当時は 8 軒ほどあった茗荷農家も、今では節子さんともう 1 軒だけとなってしまった。「でも今は、岐阜はもちろん、豊橋や金沢とか富山に『Myみょうが畑オーナー』さんってのがおられて、その方たちが草取りや間引き、そして茗荷の収穫と冬支度の藁敷を、ボランティアで手伝って下さるようになったんやさ」。 茗荷作りは、田植え終わりが始まりとなる。まずは畝の草取りに始まり、茗荷の親が茂り過ぎないように間引きし、やがて待ちに待った収穫。そして茗荷の根の越冬用に、親の茎 を刈って畝に被せ、その上に藁を敷く。「後は雪が降り積もって、白い布団を着せてもらえば、それでええんやさ。雪の中は結構温かいでねぇ」。 
      
田植え終わりから始まる茗荷作り。「茗荷たちは大したもんやさ。だって雪が融けて春になれば、藁布団を押しのけて、新しい芽が吹いて来るんやで。人間の赤子と同じで、生命力は凄いもんや」。中でも一番大変な作業は、草取りと間引きとか。「いずれも低いところに屈む作業やで、やっぱり腰や膝に負担が来るんやさ。今は車輪の付いた椅子に座って摘むで、昔に比べりゃまだいいんやけど」。根から親となる茗荷の茎が伸び、6月末頃から8月にかけて、茗荷の子が芽吹き出す。「そうして後一月もすれば、待ちに待った収穫やさ」。
    
そこでついついぼくも調子に乗って、「収穫も草取りや間引き同様、低い位置での作業ですから、これまた腰や膝にとって負担となる大変な作業ですねぇ」と口を滑らせてしまった。すると「なぁ~んも、なんも!一銭にもならん草取りや間引きと違って、収穫は 採ったら採っただけ金になる!だからついつい、もうちょっともうちょっとと、手が出るんやさ。だって今摘んでおかんと、花がついたら値が下がるで、おっかねぇと」。収穫時の自分の姿を思い浮かべたか、節子さんが大笑い。
       
​収穫したら直ぐに、茗荷に付着したゴミを取り除き色で選別。大変評判のいい種蔵の茗荷は、全体に赤く、色付きの良いものが特急品となる。1パック50g入り。「大きいと4~5個。小さいと7個くらい。大小取り混ぜてパック詰めして、農協さんに出荷するんやさ。でも茗荷の先に白い花が咲くと、もう茗荷として出荷は出来んで、それらは主に漬物加工用やねぇ」。
    
茗荷の一番の調理法を問うた。すると「やっぱり一番は、ソーメンやサラダの薬味として使ってもらったり、小さな茗荷なら一つ丸ごと天麩羅にしたり。私らは茗荷とピーマンの煮物やねぇ。刻んだ茗荷に鰹節と醤油垂らせば、丼飯一杯でもペロッやさ」。
誰が呼んだか節子さんの別名は、「種蔵みょうが栽培の師匠」とか。「そんな、師匠なんてもんやねぇんやけど。茗荷をやっとるお陰で、みょうが畑オーナーさんやら、知人や友人が増えた し、茗荷の収穫以上に、茗荷作りを通した人と人のつながりや関りが、何よりの愉しみであり生き甲斐やねぇ。茗荷も手を掛けた分だけ、ふっくら色艶良く育ってくれる。人と人の繋がりだって、茗荷作りと一緒やさ」。
     
種蔵の茗荷の守り神は、節子さんより年上のもう一軒の方と、節子さんだけの二人きり。 後継者不足が喫緊の課題でもある。半世紀の歴史を超えた種蔵茗荷の灯も、今まさに消え入ろうとしているかのようだ。「茗荷だけでは、食べてはいけんで、なかなか後継ぐって言っても難しいもんやさ。でもああして、雪の布団を着せてもらって、寒さに耐えなが ら、春が来るのを今か今かと、じーっと待っとる茗荷たちを思うと、『もう少し頑張れ!』と、茗荷たちに言われとる気がするで不思議なもんや」。節子さんは玄関先に立って、雪布団を被った茗荷畑を見詰めながら、白息を吐くいて優し気に笑った。
    
​そしてぼそっと呟いた。「夫が48歳、私が44歳の時に、病で夫を亡くしたんやさ。嫁いで20年目を迎える頃やった。その後は、義母の協力を得てがむしゃらに働き、家族と田畑を守りぬいて来たんやさ。その甲斐あってか、今は娘夫婦と孫2人に囲まれ、一番幸せな時を迎えた気がする。これから先も、今のこの暮らしが長続きする事だけが唯一の願いや。皆の支援で、こうして農作業を続けさせて貰える事に、心から感謝しとるんやさ。もうちっとの辛抱や!雪解けの春が必ずやって来るで」。節子さんはきっとこの言葉を、幾度となく自分を叱咤する、呪文のように繰り返したのではなかろうか? 気のせいか?一瞬、気の早い春告げ鳥の鳴き声が響いたようだ。まるで茗荷たちの目覚まし時計のように。
中谷節子さんイラスト