文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治
今回より❝そやさ!飛騨の記憶遺産『飛騨びと 言の葉綴り』❞と題して、飛騨市の記憶遺産として市史に留めたい、市井に生きる飛騨人の飾らぬ言の葉を拾い集め、その飛騨びとが生きた証を綴ってまいります。
とは言え、ぼくが紡ぐ言の葉だけでは、その飛騨びとの表情や生活感までを描写するには限界もあるかぁ? あっ、待てよ!そう言えば、神岡のバーに時折り現れ、呑みながら似顔絵を書くと言う、 ちょっと風変わりな男がいる、そういつだったか小耳に挟んだ事があった。ならば何はともあれ、『飛騨びと~言の葉綴り』の相棒を探しに、神岡の夜を覗いてみるとするかぁ!
神岡の夜は人恋しい。船津の町中は静かで、時折犬の遠吠えが聞こえる。柳公園の 2 本西 の通りは人通りも無く、夜の闇が辺りを呑み込んでいるかのようだ。だから民家の狭間でこっそり明かりを放つ、まるで小さなネオンサインが手招くように、人恋しさを誘う。そこには、「CAFÉ & DINING EL SOL」の文字。ええぃままよっと、暖簾ならぬ重厚なドアを開いた。
まだ宵の口を少しだけ回った時間だと言うのに、カウンターの端にはビーニーニット帽を 被った男が一人。そしてカウンターの中には、この店のママと思しき女性が、何やら愉し気に笑いながら話している。ぼくにとって神岡の夜の町は、完全なアウェイそのもの。その男とは真逆な、L字カウンターの端へと陣取った。すぐさまママがオーダーを取りにやって来る。ぼくはとりあえず、ビールと山之村ソーセージを注文し、店内の雰囲気に浸りながら、ニット帽の男の様子を窺う。男は旨そうに何杯目かであろうグラスを傾け、何やら手持無沙汰そうだ。そうこうして居る内に、重厚なドアが開き、馴染みのような女性の二人連れが、ぼくとニット帽の男の間のカウンター席へと着座。ママは女性の二人連れと、新参者であるぼくへの接客に忙しく、ニット帽の常連男だけが取り残されているようでもあった。
すると男は、何やらもぞもぞとバッグから取り出すではないか!そして伏し目がちに眺めてみると、カウンターにスケッチブックを開いて、何やら描き始めたようだ!
いかにも不審そうなぼくの表情を察知したのか、ママが「ああ、あの人ねぇ、いつもああやって呑みながら似顔絵を書いてるだけだから、怪しまなくったって大丈夫!」と。
何と、1 軒目の店で出逢えるとは「ビンゴ!」。
「ぼくの先輩にあたるのが、ママの恵子ちゃん。週末とか呑みに来ても、忙しくなると恵子ちゃんが相手にしてくれないから、いつの頃からだったか、スケッチブックを持参するようになって、小さな自分の世界に浸って、似顔絵書いて、酒呑んで」。
男の名は、波岡孝治。昭和52年生まれの47歳、生粋の神岡っ子だ。昼の顔は、家業の建 築板金を継ぐ職人。そして週末の夜の顔が、呑みながら似顔絵師となる。
波岡さんは大学を出ると、茶葉飲料メーカーに就職。そしてつくば市に赴任。しかしサラリーマン生活になかなか馴染めず、精神的なストレスに蝕まれ闘病へ。「病院食って美味しくないでしょ。だからちょくちょく売店へと通ったもの。そんな時、売店で落書き帳を見つけて」。闘病中の退屈な時間はもっぱら、その時々に感じた事柄を文字に託し、その 時々の思いの心象を絵筆で書き留めた。「それがもしかしたら、呑みながら似顔絵の原点 だったのかも」。
そうこうする内に世界は、世紀越えのミレニアムに沸き立った。「そん時思ったんですよ!つくばなんかで世紀越えかぁ?って」。波岡さんはバックパックにスケッチブックを 詰め込んで、エアーインディアの機上の人となった。世紀越え間近の年末。波岡さんは、 釈迦成道の地ブッダガヤの聖地にいた。「新世紀を迎えるなら、やっぱりここかなって」。 ブッダガヤに昇る新世紀のご来迎を仰いだ。「何だかインドに来て、人生観そのものが変わってしまうような」。インドでの世紀越えは、波岡さんの考え方に少なからぬ影響を及ぼした。
帰国後は帰郷し、家業の建築板金業の三代目として、また祖父の代から続く職人に。数年後のGW。長期休暇を利用し、兄が赴任中のシンガポールへ。神岡を出発する時点から帰国するまで、スケッチブックを片手に、「シンガポール日記」と題して、思いつくままを 文章と絵で綴り続けた。「写真やビデオじゃなくって、ぼくの眼と言うファインダー越しに映り込んだ景色を、絵筆で留めるのが愉しくって!」
しばらく後、再会した旧友から「俺の子供に絵本書いてくれんか?」と頼まれた。「結構暇な時間もあって、文章書いたり絵描いたりするのって、昔から好きだったし。ぼくの世界の中に浸っていられるし」。この世にたった一つの絵本が完成した。同時に、それは波岡さんの進む道の「未知しるべ(道標)」に。
やがて家業の三代目としてのワンポイントリリーフを終え、長男が家業に戻り四代目を襲名。「兄の方が社長業に向いてましたし、ぼくは職人の方が向いてたし」。
職人として昼間は屋根に上り、仕事の合間を見つけては絵筆をとった。
「2015年頃からだったかなぁ。時事ネタなんかを交えながら、フェイスブックに似顔絵を発表し始めたのは?」。すると地元の「神岡ニュース」から週一連載のオファーが!「連載を続けていると、もしかしたらぼくの絵と文章で、誰かの心を救うことが出来るんじゃないかって!」。連載がスタートしたのに歩調を合わせるかのように、週末がやって来る度、呑みながら似顔絵を描き始めた。これまでの7年間で、おおよそ350人ほど。
「恵子ちゃんのお店でも、お客さんに頼まれて、その人の似顔絵書いたり。酒もその日の気分で呑むものを選んだり、その時その時、ぼくの心の中を吹き抜けるフワッとした風のような感覚が、ぼくには何より重要なのかなぁ」。
普段着の似顔絵師、波岡孝治は、屈託のない子供のような表情を浮かべて笑った。