7月25日(木曜日) 市役所
飛騨古川の町並みの魅力を探り、その移り変わりなどについて学びながら、これからの町並み景観のあり方などについて皆で考える「飛騨古川・町並み景観セミナー」が市役所で行われました。
古川町の町並みは、先人や現在の地元の皆さんの尽力により、昔ながらの風情が残る美しい景観が保たれています。一方で、市民の生活様式の変化や、人口減少にともなう空き家の増加などもあり、将来的に町並み景観の保存が困難になる可能性も指摘されています。
今回は、飛騨古川・町並み景観研究会が、古川祭史編集委員会委員も務める本永義博さんを講師に招き、「古川の町並みの移り変わり 城下町の成立から現代までの概要」と題した講演会を開催。古川町市街地の成り立ちや歴史などをふまえながら、現在の町並みを構成しているさまざまな建物の特徴や、その建築に携わってきた大工らの取り組みなどについて学びました。
江戸時代の書物『飛州志』に描かれた増島城の絵図や、『古川町史』に掲載された古川町市街地の絵図などに描かれた堀や土塁、石垣、集落などを示しながら、古川町市街地の昔と今を比較。当時の面影が残っている場所や、城の領域にあったものの一部が今も残っていることを指摘しました。また、金森可重が「安心して商売ができるまち」を目指し、町並みを整えながら商売を奨励したことなども解説。今から200年ほど前には、現在の中心地に近い形の町並みができていたと説明しました。
明治時代の文明開化により洋風建築が盛んに取り入れられたり、人口が急増して明治12年には県内で6番目の戸数と人口を誇るまちだったと紹介しました。明治37年の古川大火では中心地のほとんどが焼き尽くされ「昔のものは何にも残っていない」と言われがちですが、当時の写真を見て振り返り、「土蔵の多くが焼けずに残ったので、江戸時代のものなどもたくさん残っています。土蔵はすごい」と称賛しました。
古川大火の教訓から「防火に強いまち」を目指し、また「商店街の形成」という明確な目標に沿った形で復興がなされたと強調。高度経済成長による生活様式の変化、自家用車の普及などによる建物の変遷、商店街の発展と衰退を経ながらも、大工らが「相場」「こうと」を意識した建築物を手がけることで、統一性のある整った町並みが築かれ、景観が守られてきたことを説明しました。
受講した古川中学校3年の岡田匠生さんは「マイプロ(自分の好きなこと得意なことで地域貢献を目指す古川中学校の取り組み)で、古川の景観の今と昔の違いを調べて古川の景観の良さを発信したり、空き家の活用などに取り組みたいので参加しました。話には聞いていましたが、古川の町が大火でこれほどひどい状態になったことを写真で見て衝撃を受けました」と感想を話していました。