ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 広報ひだ > 勝田萌さん(古川町) 

勝田萌さん(古川町) 

印刷用ページを表示する掲載日:2024年5月30日更新

飛騨びとの言の葉綴り画像

文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治​

勝田萌(かつたもえ)さん

話すことも、歩くことも出来ない、重度心身障害者の「萌ちゃん」!だが、みんなの「心の依り代」となり、離れ離れに暮らす家族を紡ぐ。

今、萌ちゃんは、どんな声で、何を言おうとしたのだろう?ぼくは取材中幾度となく、萌ちゃんの細い手と足が動く度、耳を澄ませ心の声を聴きたいと願った。しかし凡人のぼくには、到底萌ちゃんの心の声など聴けはしない。ならばせめてぼくも、ぼくの心を萌ちゃんの傍らに、寄り添わせてみるしか術はない。そう願い、萌ちゃんの心の声の代弁者である、お母さんの勝田なお子さんにお話を伺った。

今回の主人公は、勝田萌ちゃん21 歳。2003年4月19日、古川祭の日に河合町元田で、勝田家4人兄妹の末の次女として誕生。「萌の時は、つわりがひどくって。お腹ん中に居る時に違和感があって。そしたら生まれて来ても、産声すら上げないし。なんで?なんで?って」。なお子さんは、咽返る萌ちゃんの背をさすりながら、当時を振り返った。

普通の赤ちゃんとは、明らかに様子が違う。なお子さんも随分落ち込んだと言う。「どうにも普通に育って行かないもんだから、近隣の小児科の先生に診てもらっても『もうちょっと様子を見ましょう』って、そればっかり。何一つ検査するでもなく、段々と不信感が募るばかりで。病名すら定まらず、私自身も受け止めきれなくて、どうしようって」。やがて萌ちゃんも、生後一年を迎えようとしていたそんな頃。静岡てんかん・神経医療センターを紹介された。「そこで萌と同じような障害児を持つ、お母さん方と出逢って!『内向きになってばかりいたって、何一つ現状なんて変わらないよ!だったら❝これからどうしよう❞に、時間を割いた方がいい』って、そう言われて・・・。萌が1歳を迎える頃になって、私もやっと前を向けるようになったの」。同じ境遇の子を持つ、母の言葉だからこそ、医術を超えた説得力があった。新緑に彩られた病室の窓から、萌ちゃんとなお子さん、そして勝田家の家族の未来に、一縷の希望の木漏れ日が差し込んだ。

そして河合町へと一時帰宅。なお子さんはその足で、長男の小学校の卒業式へと駆け付けた。「長男はもしかしたら、『お母は萌にかかりっきりやで、卒業式には来てくれんやろ』って、そう思っとったかも」。なお子さんは、4人の子供たちそれぞれに、平等に愛を分け与えられる、『お母(かあ)』でありたいと痛切に感じた。だが現実は・・・。

そんな中、再び萌ちゃんが静岡の病院へと戻る日がやって来た。「皆で萌を静岡へ送って行こう!」。誰が言い出したものやら。勝田夫婦と4人の子供たちは、萌ちゃんの病院へと向かう途中、富士急ハイランドに立ち寄り、親子水入らずのかけがえのないひと時を過ごした。「今思うと、後にも先にも一回こっきりの、それが唯一の家族旅行やったんやな」。なお子さんは、そう自分に言い聞かせるように、ポツリと呟いた。 萌ちゃんの治療に向かう「療行(りょうこう)」が、家族みんなの「旅行」になったのだ。

静岡で再び、萌ちゃんの入院生活が始まった。「そんな頃だったかなぁ。萌の姉の結が9歳の頃。結が『お母さん、お母さん』って、一番私に甘えたいそんな時期。でも私は萌に掛かりっきりやったし、静岡と河合じゃなかなか会えんし、思うように結と向き合ってもやれず。その頃結は、友達のお母さんを『お母さん、お母さん』って呼んで、寂しさを紛らわしとったらしい」。なお子さんはやるせなさそうに呟いた。

それから約半年後、静岡での療養を終え、萌ちゃんとなお子さんは河合町へと戻った。萌ちゃんの病を受け入れ、そしてどう向き合い、共にこれからを歩めば良いのか。何もかもが手探りだった。「そんな頃、やまびこ教室の先生や保育士さんから、『私らも正直わからんけど、でも一緒にやって見よう』と言われて」。また一つ、希(のぞみ)が紡がれた。

とは言え、萌ちゃんが心身ともに成長するにつれ、萌ちゃんに纏わりつく病も変化を見せる。「その度に何度となく、高山の日赤に入院してねぇ。そうそう、ある時入院する荷物を車に積んどったら、ご近所の方が通りがかって。『またちょっと留守にするで、子どもらが悪さしたら叱ってな』ってな調子で。すっかり周りの方たちに支えられて」。

やがて萌ちゃんは、小学校へ入学。だが萌ちゃんの容態が急変すると、その都度30分以上かかる救急搬送が余儀なくされた。「河合から古川や高山までの搬送時間が、一番の負担でねぇ」。それでも萌ちゃんとなお子さんは、二人三脚で前を向き、ともかく今を精一杯に歩み続けた。通学や通院、さらにはリハビリにと。そうした生活面での負担は、知らぬ間に日々滓(おり)の様に沈み込み、いつしか心と体の枷(かせ)となっていった。そんな中、高山日赤へとリハビリに通う中、ささやかな愉しみが!「萌と同じような子を持つ、7~8人のお母さんと出逢って。それこそ色んな情報を交換したり、時には皆でランチするようになって」。なお子さんにも萌ちゃんにとっても、それは掛け替えのない大切なひと時となった。嘆き合い慰め合うのではなく、皆で明日をそして明後日を見詰めあえた。

「やがては萌を支援学校に通わせたいと、古川で住まい探しをしとった時、ある方が今のこの家が『空いとるで使わん?』と言って下さって」。萌ちゃんが14歳の年に古川へと移り住んだ。「まぁそれで、夫婦も子どもたちとも、別居になってねぇ。でも最初はこの家で、皆で暮らそうかとも話し合ったんやけど、一家全員で移り住むには狭すぎるし。主人は主人で河合で仕事があるし、ましてや姑さんもおる。それに上の子たちにも、それぞれ自分の道があるし。しばらくは萌と二人で古川に移って、何かあったら皆が直ぐに駆け付けようって」。古川に移り住むと、様々な支援サービスも受けやすくなり、人の手も借り易くなった。「河合におった頃は、放課後の支援サービスを受けるにしても、河合まで送迎してもらうのが大変で、途中にある道の駅なんかまで、私が萌を送り迎えする形で、そこから古川までの送迎を中継していただいたり。だから古川に住まう事で、私と萌の負担も確実に軽減されたんやさ」。

もはや家族が、一つ屋根の下で暮らせぬものの、兄妹それぞれの人生を犠牲にしてまで、一つ屋根の下に縛り付けるのもままならぬ。夫婦も子どもたちも、それぞれの事情で、一つ屋根の下からは離れ行くものの、勝田家全員の心は、これまで以上の太い絆で一つに繋がっていった。萌ちゃんと言う、言葉を発せない末の妹を中心点に。夫婦も子どもたちも、付かず離れずの距離を保ちながら、心だけはいつも萌ちゃんの傍らに寄り添わせ。

「萌が支援サービスのお世話になっている時に、お姉ちゃんの結が、『今日は萌がおらんで、お母私とお出掛けしよう』って」。人の手が借りられることにより、そんな新たな親子の時間も享受できた。「本当は結が高校の頃、お友達がお母さんと買い物に行くって言うと、羨ましくってならなかったらしい。でも『萌がおるから、お母をよう誘えんかった』って」。なお子さんは心で、兄妹4人に平等な母でありたいと常に願いながらも、時として願いとは裏腹に、それさえ許されない状況に陥る、そんなもどかしさと闘わざるを得なかったのだ。

三歩進んで二歩下がるような日々。それでも萌ちゃんは確実に大人への階段を登り続けた。そして今年の成人の日。「保育園の3年間、萌と一緒だった子たちが、『萌ちゃん、一緒に写真撮ろう』って集まってくれて。萌も嬉しそうやった」。保育園時代のたった3年間ではありながらも、同じ空気を共に吸い、同じ景色を眺め、同じ環境音に触れた友。それだけで「障害者」と「健常者」の色分けもない、何一つ気負いのない「心のバリアフリー」が見事に体現された瞬間となった。

ところで、ご主人との馴れ初めは?と、ずっと気になっていた事を問うた。「私、3人の子連れの再婚でねぇ。主人は4つ年下の初婚。次男が4歳の頃、喘息で高山の日赤に入院しとって、相部屋で入院しとったのが今の主人。主人と次男がいつの間にか仲良うなって。それから半年ほどして主人が、『俺も姉さんと仲間して』って。それが今思うとプロポーズの言葉やった」。なお子さんが、照れ臭げに笑った。そして萌ちゃんが、家族全員の依り代となって、この世に生を受けたのだ。「主人も長男次男も、そして姉の結も、それぞれ離れて暮らしてはいても、『萌どうや?』って、気遣って顔出してくれるし。そうすると萌も、嬉しいんやろねぇ。手足を動かして応えとるで」。

なお子さんは今も、萌ちゃんと二人三脚で、積極的に様々な活動に参加する。「萌の存在を通して、人やモノ、そして空間を結び付けられたら素敵やし」。母は萌ちゃんの将来を模索し続けているのだ。「いつも『なんとかよなー』とか、他愛ない事であっても、私が萌に話し掛けて。萌もちゃんと聴いとんやで。そうしてよー萌を見とると、『あっ、今萌ちゃん笑った』って」。なお子さんは、萌ちゃんの微妙な表情の変化や、些細な手足の動き一つさえ見逃さず、萌ちゃんの心の声を汲み取る。

もし萌ちゃんに言葉が宿ったとしたら、どんな言葉を発するだろう?そんな素朴な疑問をなお子さんに投げかけた。「そーやねぇ、やっぱりいっぺんでいいけど、萌の口から『お母・・・』と言われたいなぁ」。萌ちゃんの足が上下に揺れ、突然ぼくの耳に萌ちゃんの声が舞い降りた。
『お母、わたしを産んでくれてありがとう』と。
   
    
勝田萌・なお子さん