文/オカダ ミノル 絵/波岡 孝治
「kawaii″飛騨かわいスキー場に、飛騨弁を巧みに操る、怪しげなフィジアン(Fijian=フィジー人)がいるとの噂を耳にした。南国のフィジー人が、よりによって雪深いかわいスキー場にいるとは、何とも直ぐには信じ難い。ならば野次馬根性で、何はともあれ自分の目で確かめて見るかぁ!
ぼくは仕事で25~26回、ニュージーランドに出向いたことがある。その途中、Air New Zealand でフィジーのナンディ国際空港までは、何度となくトランジットで立ち寄ったものの、フィジーに入国した経験はない。だがフィジーのフィジアンも、ニュージーランドのマオリも非常に近しい民族なので、かわいスキー場で飛騨弁を巧みに操ると言うフィジアンと出逢ったら、ハカ(オールブラックスが国際試合前に舞う民族舞踊)でも披露して、最後はオデコとオデコをすり寄せ合い、敵の部族ではない証しをたて、親睦を深めでもするかぁと、そんな呑気なことを考えながら雪道を慎重に車を進めた。
「まぁどうぞ。こちらのストーブのある暖かい席に!」。ヒュッテの中を覗き込むと同時に、とても親し気に手招きされたではないか!
ここは「kawaii″飛騨かわいスキー場。センターのテーブルでは、ワイルド極まりない大柄な髭面男が、見た目とは裏腹に柔和な笑みを浮かべ、こちらに向かって手招いている。「あの~っ、実はこちらに、飛騨弁を巧みに操るフィジアンがいらっしゃるとお聞きしまして・・・。ぜひ、お目に掛れないものかと、遥々やってまいったのですが・・・」。「それって・・・もしかしたら・・・ぼくのことじゃないですか?」。えええっ、確かにそう言われてみれば!大柄な髭面からして、フィジアンでもサモアンでも、マオリでも十分に通用しそうだ。それに澱みない飛騨弁は、ネイティブの飛騨びとも舌を巻くほどの腕前だ!「ワッハッハッハ!そりゃあそうですって!ぼくは生まれも育ちも、この河合町ですから!押しも押されもせぬ生粋の飛騨びとですって」。
飛騨弁を巧みに操るフィジアンならぬ、岡崎賢一郎さん43歳。Toka Clown Class 代表でもあり、「kawaii″飛騨かわいスキー場の NOASOBI キャンプ場を運営する、株式会社 Inter-being の代表取締役でもある。雪焼けしたワイルドな笑顔には、大らかな温もりが満ちていた。
岡崎さんは昭和56年、河合町稲越で建築板金業を営む家の長男として誕生。飛騨神岡高校を卒業し地元企業に就職。2005年、古川町出身の妻を迎えた。ハネムーンは何とジャマイカ!「レゲエが好きだったから!」と。そして2007年に退職。27歳の年にそのまま夫婦二人で、フィジーへ。「とにかく色々経験したかったのと、世界の国のことを知りたくって。例えば子どもが生まれて、『オーロラってどんもの?』って問われた時に、実際にぼくが目にしてないと、何も話してあげられないのも嫌だし・・・。えっ、何でフィジーを選んだのかって?そりゃあ現地の人の家でホームステイするんですが、何より生活費が安かったから」。その時、岡崎さんはまだ、フィジアン達のライフスタイルが、後々自分のライフスタイルに多大な影響を及ぼすとは、全く持って気付く余地も無かった。
「フィジーでの1年間は、とにかくやることなす事驚きの連続。だって、自分の T シャツを洗濯して干しておいたんです。取り込もうとすると、その T シャツだけが見当たらなくって。風で飛ばされたのかなって思いながら、街を歩いているとぼくの T シャツを着てる男とすれ違ったんですよ!『その T シャツぼくのだけど!』って言うと、その男は悪びれもせず『ケレケレ』って言いながら笑い掛けるんですよ!ケレケレって何だろうと思っていると、洗濯して T シャツを返しに来てくれるじゃないですか!それから、バーでお酒を飲もうと注文したら、ぼくのすぐ後ろに並んだ見ず知らずの男が、これまた『ケレケレ』って言うじゃないですか?そしてぼくが、事もあろうにその見ず知らずの男に、酒を奢ってやる羽目に!それから『ケレケレ』について教えてもらったんです。するとぼくも、街で逢った見ず知らずの人に対して、お金が無い時なんかは、恥ずかしがらずに『ケレケレ』って言えば、酒だろうが食事だろうが、相手がちゃんと面倒を見てくれるんだとか!つまり簡単に言えば、『ケレケレ』とは、『お願い、頂戴、貸して』が融合したような感じ。だから人の物は自分の物でもあり、自分の物は人の物でもあって、相互に補う事で暮らしが成り立っている国、それがフィジアンの『ケレケレ』文化なんですよ!」。日本の頼母子講は、金銭を互いに融通し合うものだが、フィジアンの「ケレケレ」は、精神的な相互扶助を相身互いの心で、何の気負いもなくただただ普通に、見ず知らずの者であっても分け合うと言う、極めて精神性の高い崇高な文化なのかも知れない。それに近い寛容な相互扶助の施しは、昭和半ば頃までの日本にもわずかに残っていた気もする。
そんなフィジー生活で、フィジアンの緩やかな考え方や、束縛されない穏やかな生き方が、知らず知らず岡崎さんの心の奥底に滓の様に沈んでいった。
そうしてフィジーでの1年が過ぎた。「ビザの関係もあって、5日間だけ日本に戻り、そのまま今度はニュージーランドの南島にある、ネルソンへと向かったんです」。南半球にあるニュージーランドの気候は、日本とは真逆。「最初の半年間はテント暮らし。そして寒くなって来たので、オンボロの車を改造して車中泊で半年。妻もキャンプ好きだから、二人で結構楽しんだものです」。岡崎さんはネルソン近郊にあるワイナリーで、杭打ちやワイヤー張りのアルバイトに勤しんだ。「そのワイナリーで一緒に働いていたのが、トンガ人やサモア人でした。彼らもまたフィジアン同様に、ポリネシアン独特の寛容性や思いやりの持ち主で、ポリネシア人の影響力が益々ぼくの心の中に染み入って来たのかな」。岡崎さんは、雪が舞い落ちる窓辺に目をやった。「本当にあの 2 年は、色濃かったですねぇ!まぁ今にして思うと、あの2年間が現在の基盤になったのかもしれません」。
30歳で帰国すると、再び地元企業から声が掛かり復職。やがて1女2男にも恵まれ、充実した日々が続いた。
そして38歳を迎えた頃だった。「会社の事業計画発表会ってのがあって、その時講師としてやって来られたのが、日本のホスピタルクラウンの第一人者、大棟耕介さん。その話を聞いて、何だかビビッと来ちゃって『俺もやってみたいなぁ』と」。人と人を結び付けるコミュニケーション力や、癒す力にすっかり魅了され、クラウンの持つ魔法に憑りつかれた。その翌年の発表会にも、大棟さんが来演され、クラウンへの思いは立ちきれないものへと膨らんでいった。そしてついに大棟さんが主宰する「クラウン入門講座」に入門。毎週水曜日には、会社に休みを貰い、車を飛ばして名古屋へ。講座が終わると再び車を飛ばし、夜中の2時頃に帰宅し、仮眠後に出社すると言う生活が約5ヵ月ほど続いた。その後はボランティアとして、保育園やら子ども会とかで、クラウンとしてのデビューを飾った。「もうそうなって来ると、すっかり深みに嵌まってしまって」。とうとう師の大棟さんにも相談するほどに。「そしたら、アメリカのノーステキサス大学のキャンパスを借りて、クラウンキャンプが開催されるから、そこで学んで来たらどうだって!」。単身2週間の武者修行の旅へ。「そりゃあもう、ヤバいっすよ!だってキャンプの参加者みんながテーマを決め、ディスカッションするんですよ。でも最初の内は、日本人の奥ゆかしさってぇ奴で、恥ずかしいからじっとして黙ってたんです。そしたらそうやって黙している方が、逆に目立っちゃうくらい、みんな真剣に議論してるんです!」。キャンプでは初日から洗礼を浴びた。「アメリカやヨーロッパでは、クラウンの位置付けが高いんです。だからクラウンが履く大きな革靴を持って街中を歩いていると、知らない人から声を掛けられ、一緒に写真を撮らせてくれって。まぁ、クラウンと言えば、脇役ではありながらも、座長のような存在ですからねぇ」。濃厚な2週間の武者修行を終え帰国。
それから自問自答が始まった。「ボランティアだとお金が介在しないから、自分自身どうせアマチュアだしと甘えてしまう。でも何としても大棟さんの教えや、キャンプで学んだクラウンの教えを、自分なりに周りで発展させたい。やっぱりお金を貰ってプロとして、厳しく甘えの許されない状況の中に身を置き、クラウンとしての活動を続けたい!だがプロとして活動するには、会社にいてはだめだ!」。
そして2020年、地元企業を退職し会社を設立。同時に大棟さんから、クラウンネーム「Clown Toka」をいただいた。Toka とは、フィジー語で「胡坐(あぐら)」と言う意味だ。このクラウンの活動も、Inter-being の事業の一つとなった。同時に、夏場使われないスキー場をキャンプ場としてプロデュースする「NOASOBI キャンプ場」の運営も始まった。「老若男女を問わず、ここを訪れた方には、各自で自由気ままに自然と触れ合ってもらい、自然と戯れながら遊んで欲しいんです。自然は喋ったり、語り掛けてはきません。この自然の中で自分と向き合い、そして自分自身と対話してほしいんです。さまざまな情報が交錯する現代社会において、さまざまな情報を詰め込み過ぎてそれに振り回されるのじゃなくって、自分の心の中に緩やかで居られるような余白の部分を作っておいて欲しいんです。中でもぼくが力を入れているのが『アースオーブン』」。ニュージーランドのマオリ族や、ポリネシアやオセアニアの各地でも見られる地面に穴を掘り底に焼け石を、その上に食材を入れた籠を置き、湿らせた布を被せ、穴を土で埋め戻せば焼け石の熱が保たれ蒸し焼きとなる、マオリ語で言う「ハンギ料理」。ポリネシアでは「ウム」、ハワイでは「ラウラウ」とも呼ばれる、大地が腕を揮う、素材の味を存分に活かす素朴な料理だ。
「そして冬場は、もっぱらゲレンデの整備や圧雪、それにヒュッテの運営ですねぇ」。そんな日々の合間に、クラウンとしての出演も続ける。「クラウンの活動を、将来的には学校の教育現場に取り入れてもらうのが夢なんです。障がいの有無に関わらず子どもたちが向き合い、クラウンの持つ包容力や、言葉を発しないことで逆に伝えられる、そして分かり合える、そんなコミュニケーション力を、子どもたちにも伝えることが出来れば、きっと自然な形で互いの多様性も認め合えるはずなんです。クラウンって、例えばジャグリングで、ボーリングのピンのような『クラブ』を投げて、取り損ねて落としちゃったとしても、逆にその失敗で笑いを誘う事になって、観客とクラウンとの距離が縮まり、新たな関係が生まれるんです」。失敗から始まる、逆転の発想を活かす、クラウンならではのコミュニケーションだ。「クラウンとして子どもたちの可能性を、思いっきり引き出してあげたいんです」。ゲレンデに舞う雪を、岡崎さんは何とも優し気に見詰めた。
「将来は、フラも事業の一つとして取り組みたいんです」。岡崎さんが少年のように、瞳を輝かせながら語り出した。「長女がフラダンスを習っていて、ぼくも興味を持って。そうこうしている内に、偉大な指導者を意味する『クムフラ』と呼ばれる、横浜のフラの先生から言われたんです。ぼくなんてフラダンスなんて上手じゃないんですが、『あなたはエカヒレイホノホノ(伝える人、伝える先生)になりなさい』って!フラのダンスが上手なだけでは、決して先生になれないんだとか。フラの先生が、教える側に回りなさいって仰らない限り」。岡崎さんの中に潜む、スピリチュアルな感性を、クラウンの師もフラの師も、自ずと見抜いたのかもしれない。
「きっとぼくの心が、子どものままなんですよ」。声音や言語ではない波長のようなものが、クラウンとしての岡崎さんの表情や滑稽な動作を通じ、言語を越えた心の言葉となり、その場に居合わせる人々の心とチャネリングされ、言葉に頼らぬコミュニケーションが成立する。クラウンもフラも、キャンプ場の大自然も、何一つ言葉を発することなく人々を癒す!大らかで緩やか、そして寛容な『ケレケレ』の思想を、飛騨の Clown Toka~岡崎賢一郎は、今日も誰かに伝え続ける。フィジー仕込みの『ケレケレ』の伝道師として!